上品で落ち着いた女性を多く演じられている、女優の高橋惠子(たかはし けいこ)さん。15歳のとき、体を張った演技で鮮烈なデビューを飾られ、1970年代を代表する人気女優となられましたが、突然の舞台降板や、海外への逃避行などで、世間を騒がせたこともあったようです。
少女時代
高橋さんは北海道で生まれ、
小学6年生の途中まで、北海道で過ごされました。
小学校まで、毎日片道4キロを、
歩いて通われるという、
とてものんびりとした田舎ぐらしを、
送っておられたようです。
しかし、高橋さんのお父さんの、
「子供には大学進学を実現させてやりたい」
という考えから、
ご家族で、東京の府中市に、
引っ越しをされたのでした。
お父さんは、大学進学を夢見ながら、
断念せざるをえなかったようなので、
娘である高橋さんに、夢を託されたのでしょう。
スカウト
東京の府中市に引っ越してこられた、
高橋さん一家ですが、
1968年、高橋さんが中学2年生の時、
行きつけの写真館にフィルムの現像を依頼しに行くと、
現像を頼んでいる高橋さんのことを、
じっと見つめている男の人がいたのだそうです。
その男の人は、
高橋さんの隣にいたお母さんに、
「娘さんを女優にしてみるつもりはありませんか?」
と声をかけてきたというのです!
高橋さんは、最初戸惑われたそうですが、
お母さんと一緒に話を聞くことに。
実は、その男の人は、映画会社「大映」の、
スチールカメラマンだったそうです。
そのとき、高橋さんは中学2年生。
いかに美少女だったか、想像できますね!
高橋さんは、それまで全く、
芸能界に縁も興味もなかったそうですが、
スカウトされた直後から、
「女優になってみたい!」
と強く思われたとのこと。
しかし、もともとは、
ご両親が、娘を大学に進学させるために、
東京に引っ越してきたわけなので、
もし、反対されたら、
その時はあきらめようと思われたそうです。
しかし、意外なことに、
あっさり賛成してくれたのだとか!
芸能界へ
そして、高橋さんは、中学卒業後、
大映に入社することが決まり、
中学を卒業するまでの1年間、
演技のレッスンを積みながら、
同時に、コンテスト「第1回ミスセブンティーン」
を目指されたそうです。
そのコンテストでは、
歌の審査があったことから、
音楽教室に通われたのでした。
余談ですが、そこで、
後の石川さゆりの芸名で活躍する、
驚くほど歌の上手な、天才少女に出会われたそうです。
さておき、高橋さんは、
「第1回ミスセブンティーン」で予選を通過され、
最後の3人に残られたそうですが、
残念ながらグランプリは逃してしまいます。
その後、中学を卒業と同時に大映に入社。
女優に専念したいとの思いから、
高校へは進学されなかったそうです。
高校生ブルースでデビュー
当初、デビュー作品は、
映画「おさな妻」に決定していましたが、
映画「高校生ブルース」の主演予定だった女優が、
怪我をしてしまい、
高橋さんは、急遽代役に抜擢されます。
青春ものとはいえ、性描写があるこの映画で、
15歳とは思えない体当たりの演技を披露され、
旧姓の「関根恵子」名義で、
鮮烈なデビューを果たされたのでした。
そして、当初、デビュー作品となるはずだった、
「おさな妻」が、高橋さんの第2作目となったのですが、
この映画も大胆なシーンがあり、
2作続けて10代の少女の性を描く映画に、
出演しなければならないことに戸惑いながら、
同時に、映画の宣伝活動も、
しなければならなかったそうです。
引退を表明
端から見ていると、
順風満帆な高橋さんでしたが、
映画の宣伝活動で、
取材に答えているうちに、
「奔放な不良少女」
のイメージが植え付けられ、
しかも、その期待に答えようとして、
本来とは違う自分である、
不良少女を演じるようになったそうです。
その結果、自分とは違うイメージが独り歩きし、
素の自分とのギャップに、
耐えられなくなってしまいます。
そして、高橋さんは、
引退を決意されたのでした。
再び女優業へ
しかし、最後の作品のつもりで臨んだ、
増村保造監督の「遊び」に出演され、
増村監督の情熱と映画作りへの取り組みに、
感動された高橋さんは、
一から女優業に取り組むことを、
改めて決意されます。
そんな折、大映は倒産。
高橋さんは東宝へ移籍されることとなりました。
その後は、テレビドラマ、映画、舞台と、
次々に出演されています。
自殺未遂
しかし、依頼される役柄が、
性に奔放な役ばかりで、
まるで、ご本人自身が、
「魔性の女」であるかのような報道ばかりが、
相次いだことで、ストレスがピークに達し、
1977年、高橋さんは、
自己否定感から、大量の睡眠薬を服用して、
自殺を図られます。
幸い、すぐに発見されたので、
一命はとりとめられましたが、
女優業を廃業しようと、
無期限での休業を取られたのでした。
しかし、山村で気ままな生活を送るうちに、
あれほど否定した女優業への思い出が、
光り輝き、よみがえってきたのだそうです。
そして、1979年、
所属事務所に復帰を申し出られ、
舞台「ドラキュラ」の公演で、
ドラキュラ伯爵に血を吸われ、吸血鬼にされてしまう、
ルーシー役を演じることになったのでした。
逃避行!
しかし、今度は、
次第に演技に対する恐怖に襲われるようになり、
なんと、高橋さんは、
舞台初日の前日に、
タイに逃避行してしまったのです!
しかも、若手作家と共に海外に逃避行したことから、
愛の逃避行と呼ばれ、
大変な騒ぎになったようです。
高橋さんは、逃避行された理由が、
恋愛絡みであることを認めておられますが、
相当、不安定な精神状態だったようで、
やはり、逃避行先のタイでも、
死ぬことを考えておられたのだとか。
しかし、ご両親の顔が浮かび、
帰国を決意されたそうです。
世間からの批判
帰国後、謝罪会見を開いた高橋さんでしたが、
周囲からは猛バッシングを受けられたそうです。
俳優さんも私が出るなら出ないという人もいた。
と、共演NGを言われたり、
記者からは、
「あなたは人間失格」
と厳しい言葉を浴びせられたり、
針のむしろ状態だったとか。
そんな高橋さんは、心を新たに、
今度こそという誓いを胸に、
再度、女優復帰を事務所に申し出られ、
1980年、サスペンスドラマの愛人役で、
女優として復帰されたのでした。
結婚!
そんな高橋さんは、1982年、
映画「TATTOO<刺青>あり」で知り合われた、
映画監督の高橋伴明さんと結婚されています。
運命的なもの。縁を感じました。
一緒にいて自分らしくいられて、
どんな逆境に追い込まれても、
この人とだったらゼロから一緒にやっていける。
と、感じられたのだそう。
以降、高橋さんは、
現在の「高橋惠子」へと芸名を変えられ、
同時に、ヌードにならないことを、
決意されたのでした。
そのことについて、
「女優・関根恵子」のイメージを抱えたままの、
結婚生活は難しいと思ったんです。自分に近いところで女優をやってみたい。
と語っておられました。
そして、高橋さんは、
新婚旅行で海を見ながら、
「関根恵子は死んだ」
と思われたそうです。
少女の頃から、体を張ったシーンを、
数多く演じられ、
本当の自分と、演じている役柄とのギャップに、
相当悩まれていたのでしょう。
ご結婚をきっかけに、心の安定を取り戻されて、
本当に良かったですね。
近年は、大人の落ち着いた女性の役を、
多く演じられているようですが、
こちらが、本当の高橋さんに近いのかもしれません。
今後もマイペースに頑張ってほしいですね。
応援しています!!
https://www.youtube.com/watch?v=VX-KsV1zyiQ