「はっぴいえんど」解散後は、ソロ活動を経て、1978年、「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成すると、1979年9月25日にリリースした2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」が大ヒットを記録し、
その後も、1980年6月5日にリリースした3枚目のアルバム「増殖」が社会現象となるほどの熱狂を巻き起こした、細野晴臣(ほその はるおみ)さん。
今回は、そんな細野晴臣さんの、若い頃(「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」時代)の経歴やアルバムを時系列でまとめてみました。
「【画像】細野晴臣の若い頃は?デビューから「はっぴいえんど」~ソロ時代までの代表曲や経歴を時系列まとめ!」からの続き
細野晴臣は31歳の時に坂本龍一と高橋幸宏と共に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成
細野晴臣さんは、1978年、31歳の時には、高橋幸宏さん、坂本龍一さんと共に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成すると、同年11月25日には、ファーストアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」をリリースしています。
「イエロー・マジック・オーケストラ」
ちなみに、「イエロー・マジック・オーケストラ」とは、細野晴臣さんの構想によるもので、”イエロー・マジック(黄色魔術)”=東洋的エレクトロニクス・ポップを世界にアピールするというコンセプトがあるそうです。
細野晴臣は31歳の時に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」としてアメリカで前座公演を行うと絶賛されていた
そして、1979年5月30日には、ファーストアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」をアメリカのマーケット向けにリミックスしたアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)」を発売し、
「イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)」
同年8月2日~4日、ロサンゼルスのグリーク・シアターで、ロックバンド「チューブス」の前座公演を行うと(海外で初となる公演)、前座でありながらも、観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛されたのでした。
細野晴臣が32歳の時には「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」の2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」が100万枚を売り上げる大ヒット
さらに、「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」は、1979年9月25日(細野晴臣さん32歳)に2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」をリリースすると、
「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」
オリコン・チャート1位にランクインして、100万枚を売り上げる大ヒットを記録し、一躍、知名度を高めたのでした。
(「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」に収録されている「テクノポリス」「ライディーン」は、「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」のパブリック・イメージとなっています)
細野晴臣が32歳の時には「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が社会現象を巻き起こしていた
そんな「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」は、1979年10月(細野晴臣さん32歳)からワールドツアーを開催すると、
聴衆に対して媚(こび)を売ることなく黙々と楽器と向かい合って演奏する姿や、真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが人気を博します。
そして、同年12月、帰国する頃には、海外での人気が逆輸入される形で、日本国内でも、あらゆる世代に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」のテクノブームが巻き起こり、
若い世代が「テクノカット」をマネするほか、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど、「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」の影響は社会現象になるほどの熱狂を巻き起こしたのでした。
細野晴臣が32歳の時には「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」の3枚目のアルバム「増殖」(X∞MULTIPLIES)がオリコンチャート初登場1位となる大ヒット
さらに、「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」は、1980年6月5日にリリースした、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された3枚目のアルバム「増殖」(X∞MULTIPLIES)も、オリコンチャート初登場1位となる大ヒットを記録しています。
(ファーストアルバムのUS版を2枚目のアルバムとすると、「増殖」は4枚目のアルバム)
ちなみに、この「増殖」(X∞MULTIPLIES)は、当初は、10万枚限定として発売する予定だったそうですが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされたのだそうです。
細野晴臣が34歳の時には作曲した「イモ欽トリオ」の「ハイスクールララバイ」が160万枚を売り上げる大ヒット
その後も、「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」は、
と、リリースしているのですが、
そんな中、細野晴臣さんは、バラエティ番組から誕生したアイドルグループ「イモ欽トリオ」のデビューシングル「ハイスクールララバイ」を作曲し、1981年8月5日にリリースされると、
「ハイスクールララバイ」
この「ハイスクールララバイ」は、オリコン7週連続1位、累計売上160万枚のミリオンセラーとなる大ヒットを記録しています。
細野晴臣は36歳の時に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を解散(散開)していた
その後、1982年には、「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」は、各自ソロに打ち込み、実質的に音楽活動を休止するも、
1983年元日に音楽活動を再開すると、
と、リリースしたのですが・・・
1983年10月には、やりたいことをやり尽くしたという理由で、解散(散開)しています。
ちなみに、細野晴臣さんは、
30歳の頃、ロックに飽きたんです。全部知ったつもりになって、ちょっと傲慢(ごうまん)だったのかもしれない。やめるか続けるかをYMOで試したのですが、結果、やめるわけにはいかないほど売れてしまいました
全部、『はっぴいえんど』の延長なんですよ、僕にとっては
などと、語っています。
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「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」解散(散開)後は、ワールドミュージックやアンビエント・ミュージックを深く探求しつつ、他のアーティストへの楽曲提供、プロデュースなど、多岐に渡って活動している、細野晴臣(ほその …