シンガーソングライター、ギタリスト、プロデューサーとして、日本の音楽シーンの様々な分野で活躍してきた、伊藤銀次(いとう ぎんじ)さんですが、
そんな伊藤銀次さんは、1989年には、音楽バラエティ番組「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称「イカ天」)に審査員としてレギュラー出演すると、もう一人の審査員・吉田建さんと共に、「建&銀次」と呼ばれ、審査コメントの最中にやり合う様子が「辛口コンビ」として人気を博しました。
今回は、伊藤銀次さんが「三宅裕司のいかすバンド天国」に出演するようになった経緯、吉田建さんとの関係などについてご紹介します。
「伊藤銀次は「ウキウキWATCHING」(笑っていいともOP)を作曲していた!」からの続き
伊藤銀次は降板した土屋昌巳の代役として「イカ天(三宅裕司のいかすバンド天国)」出演依頼を受けていた
伊藤銀次さんは、1989年に「三宅裕司のいかすバンド天国」の出演依頼を受けたそうですが、
その内容というのは、1960年代に人気を博した「勝ち抜きエレキ合戦」のような、アマチュア・バンド・コンテストの番組がTBSテレビの深夜に始まり、シンガーソングライターの土屋昌巳さんが審査員を務めていたものの、1~2回出演しただけで降板してしまい、代わりの審査員を探している――というものだったそうです。
伊藤銀次は「イカ天」出演を二つ返事で引き受けていた
実は、土屋昌巳さんが審査員を降板したのは、出演バンドの一つが、生放送にもかかわらず、突然、下半身を露出したからだったそうで、
(土屋昌巳さんは勘弁してくれ… という感じだったそうです)
伊藤銀次さんは、その話も含めてマネージャーから聞いたそうですが、それはまったく気にならず、二つ返事で引き受けたそうです。
というのも、ちょうどその頃、東京を中心に、インディーズ・シーンが盛り上がりを見せており、
「ラフィン・ノーズ」「ウィラード」「ケンジ&トリップス」「ザ・コレクターズ」などなど、パンク、メタル、ネオ・モッズ、プログレ、スカなど、それまでのメジャーのレコード会社では世に送り出せなかった、自由でアナーキーな表現を持った新しいアーティストたちが次々と人気を博し始めていたそうで、
もともと、伊藤銀次さんも、インディーズ的なバンド「ごまのはえ」からスタートしたこともあり、にわかに「インディーズ」バンドに興味が沸いてきて、自身のラジオ番組でもインディーズ特集を企画していた、ちょうどそんな時だったのだそうです。
伊藤銀次が「イカ天」で「辛口な審査員」と言われるようになった理由とは?
こうして、伊藤銀次さんは、1989年4月8日、「三宅裕司のいかすバンド天国」に初出演すると、
審査員席は、
- 1番目が、審査委員長の萩原健太さん
- 2番目が、オペラ歌手の中島啓江さん
- 3番目が、グーフィー森さん
- 4番目が、ベーシストでプロデューサーの吉田建さん
だったそうで、
伊藤銀次さんは、吉田建さんの隣の5番目に座ることになったそうですが、
吉田建さんが、伊藤銀次さんと同じ、音楽プロデューサー&ミュージシャンだったことから、審査員の役割がかぶり、普通にコメントすると、内容が吉田建さんとかぶっておもしろくないな、ととっさに感じたそうで、
自分でも詞を書くため、詞に重きをおいて審査することで、存在感を出していこうと決めたのだそうです。
(伊藤銀次さんが入るまでは、ほかの4人の審査員の役割は見事にかぶることなく、明確に棲み分けができていたそうす)
すると、そのうち、変な和製英語の詞を歌うバンドが出てきたそうですが、司会の三宅裕司さんが、必ずといっていいほど、伊藤銀次さんにコメントを振ってくるようになったそうで、
伊藤銀次さんが、詞に関して辛口なコメントをするうち、「辛口な審査員」と言われるようになったのだそうです。
伊藤銀次は「イカ天」で吉田建と共に「建&銀次」と呼ばれ「辛口コンビ」として人気を博していた
また、伊藤銀次さんと吉田建さんは、「建&銀次」と呼ばれ、審査コメントの最中にやり合う様子が「辛口コンビ」として大きな話題となり、番組のもう一つの目玉にもなったことから、
いまだに、
お二人は仲が悪いんですか?
と、質問されることがあるそうですが、
実は、伊藤銀次さんは、吉田建さんとはこの時が初対面ではなく、旧知の仲で、継続的ではないものの、1970年代には、「バイ・バイ・セッション・バンド」のバックバンドをしたり、1980年代には、伊藤銀次さんが編曲を担当することになった沢田研二さんのバンドに、吉田建さんがいたりと、以前、一緒に仕事をしたことがあったそうで、
伊藤銀次さんは、吉田建さんとこのような場面でもう一度出会い、まさか、「建&銀次」として人気者になるとは思いもよらず、吉田建さんとは何か縁のようなものを感じているといいます。
「伊藤銀次の妻は?子供(息子)に楽曲(When you grow up)を捧げていた!」に続く
佐野元春さんの初期サウンド・プロデューサーを務めるほか、1980年代には、沢田研二さんやアン・ルイスさんにもアレンジや楽曲提供を行うと、1990年代には、ウルフルズのプロデューサーも務めるなど、日本のポップ・ミュージック …