1982年、23歳の時、「安全地帯」として、シングル「萠黄色のスナップ」でレコードデビューすると、1983年にリリースした4枚目のシングル「ワインレッドの心」が70万枚を売り上げる大ヒットとなり、以降、「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさよなら」「碧い瞳のエリス」「プルシアンブルーの肖像」など、立て続けにヒットを連発した、玉置浩二(たまき こうじ)さん。
今回は、玉置浩二さんの若い頃(プロデビュー以降)から現在までの代表曲やアルバムほか経歴を時系列でご紹介します。
「玉置浩二のデビュー前(アマチュア時代)は”北海道の地元の仲間だけで作る音楽”を目指していた!」からの続き
玉置浩二は23歳の時に「安全地帯」として「萠黄色のスナップ」でレコードデビューするも当初はパッとしなかった
1981年秋から、井上陽水さんのバックバンドとして全国ツアーに帯同した、玉置浩二さんら「安全地帯」は、1982年2月25日には、満を持してシングル「萠黄色のスナップ」でレコードデビューを果たしたそうですが、
「萠黄色のスナップ」
売上は思わしくなく、
その後も、
- 同年10月25日には、2枚目のシングル「オン・マイ・ウェイ」
「オン・マイ・ウェイ」 - 翌年の1983年1月25日には、ファーストアルバム「安全地帯 I Remember to Remember」
と、リリースするも、ほとんど話題にならなかったそうです。
玉置浩二は25歳の時「安全地帯」として「ワインレッドの心」が70万枚を売り上げる大ヒットを記録していた
しかし、1983年11月25日、4枚目のシングル「ワインレッドの心」をリリースすると、サントリーのワインのCMとのタイアップや、人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」で歌ったことなどから火がつき、最終的に70万枚を売り上げる大ヒット。
「ワインレッドの心」
実は、玉置浩二さんが作った曲(デビュー曲~3曲目)がなかなか売れなかっため、プロデューサーの星勝さんに、
井上陽水さんに曲を作ってもらおう
と、切り出されていたそうですが、
玉置浩二さんは、あくまで自分で曲を作ることにこだわってこの提案を拒み、1週間だけ時間をもらい、絶対に売れるものを作ってやるとの思いから必至になって曲を作ったそうで、
本来やりたかったロックっぽいサウンドではダメだと、思い切って歌謡曲の要素を取り入れてできたのが、「ワインレッドの心」のメロディだったのだそうです。
また、詞もいろいろな人に頼んだ末、最終的に井上陽水さんに依頼したそうですが、玉置浩二さんは、スタッフを介して3度も書き直してもらったのだそうです。
(井上陽水さんも考え抜いて歌詞を書き、歌詞を書くためにノートを1冊使い切るほどだったといいます)
玉置浩二は26歳の時に「恋の予感」が大ヒット
すると、1984年5月1日、25歳の時には、2枚目のアルバム「安全地帯II」も、累計売上げ54.5万枚となる大ヒット。
そして、同年10月にリリースしたシングル「恋の予感」も43万枚を売り上げる大ヒット。
「恋の予感」
さらに、同年12月1日にリリースした3枚目のアルバム「安全地帯III~抱きしめたい」も、78.1万枚を売り上げる大ヒットとなったのでした。
以降、「安全地帯」は、
- 8枚目のシングル「熱視線」(1985年1月リリース)
「熱視線」 - 9枚目のシングル「悲しみにさよなら」(1985年6月リリース)
「悲しみにさよなら」 - 10枚目のシングル「碧い瞳のエリス」(1985年10月リリース)
「碧い瞳のエリス」 - 4枚目のアルバム「安全地帯IV」(1985年11月)
- 11枚目のシングル「プルシアンブルーの肖像」(1986年7月リリース)
「プルシアンブルーの肖像」
と、立て続けにヒットを連発し、安定した人気を誇ったのでした。
玉置浩二は34歳の時に「安全地帯」の活動を休止していた
ちなみに、玉置浩二さんは、「安全地帯」の活動と並行して、1987年にソロデビューを果たすと、その後、俳優としても精力的に活動するようになり、1992年には、「安全地帯」の活動を休止し、ソロ活動に専念しているのですが、
その後、「安全地帯」は、
- 2002年に活動再開
- 2003年に活動休止
- 2010年に活動再開
と、活動休止と活動再開を繰り返しています。
「玉置浩二は石原真理子との不倫が原因で最初の妻と離婚していた!」に続く
1983年、「ワインレッドの心」が70万枚を売り上げる大ヒットを記録し、一躍人気アーティストの仲間入りを果たすと、以降、「恋の予感」「悲しみにさよなら」などヒット曲を連発し、1980年代の音楽シーンを席巻した、玉置浩二( …