1966年、34歳の時、「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞に輝き、作家デビューすると、その後も、1967年には、「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を、1976年には、「青春の門」で吉川英治文学賞を受賞した、五木寛之(いつき ひろゆき)さん。
そんな五木寛之さんは、生後まもなく、教員だったお父さんの仕事の都合で、当時、日本の植民地だった朝鮮に渡ると、少年時代は、朝鮮各地を転々として過ごしたそうですが、
中学1年生の時、朝鮮・平壌で終戦を迎えると、ソ連軍進駐の混乱の中、お母さんが亡くなったことから、お父さんが茫然自失となり、その後、まだ中学1年生だった五木寛之さんが、一家の中心となって、幼い妹、弟に加え、お父さんを連れて平壌を脱出し、2年かけてようやく38度線を超え、海を渡って帰国し、福岡県に引き揚げたといいます。
今回は、五木寛之さんの、知られざる生い立ち(幼少期から早稲田大学時代まで)をご紹介します。
五木寛之のプロフィール
五木寛之さんは、1932年9月30日生まれ、
福岡県八女郡の出身、
学歴は、
(旧制)福岡県立八女中学校
⇒新制光友中学校(転校)
⇒福岡県立福島高等学校
⇒早稲田大学露文科中退
ちなみに、五木寛之さんの本名は、「松延寛之」(まつのぶ ひろゆき)というそうですが、妻・玲子さん(岡家)の親類の五木家に跡取りがいなかったことから、五木寛之さんが「五木姓」を名乗ることになったのだそうです。
五木寛之は誕生してまもなく両親に連れられて朝鮮に渡っていた
五木寛之さんは、教員だったお父さんの松延信蔵(まつのぶ しんぞう)さんと、同じく教員だったお母さんのカシエさんのもと5人きょうだい(うち2人は早世し弟と妹が1人ずつ)の長男として誕生すると、
五木寛之さんの生後まもなく、お父さんの仕事の関係で、当時、日本の植民地だった朝鮮に一家で渡ったそうで、その後、新天地を求める両親に連れられ、全羅道、平壌、京城(現在のソウル)など、朝鮮各地を転々としたそうです。
五木寛之が幼い頃は父親に小説や物語を読むことを禁じられていた
そんな五木寛之さんは、幼い頃は、お母さんが学校で図書館の管理も行っていたことから、自由に本を読むことができたそうですが、
お父さんには、古典の素読、剣道、詩吟を教えられ、小説や物語を読むことは禁じられていたそうです。
ただ、五木寛之さんは、友人から借りた、山中峯太郎、南洋一郎、坪田譲治、佐々木邦、江戸川乱歩などの作家の作品を密かに愛読していたそうです。
五木寛之は中学1年生の時に朝鮮・平壌で終戦を迎えるも母親が他界し父親が茫然自失となってしまっていた
そんな中、五木寛之さんが中学1年生の時、朝鮮・平壌で終戦を迎えたそうですが、平壌にソ連軍の兵士が進駐してきたことから、街は大混乱となり、その混乱のさなか、五木寛之さんのお母さんは亡くなってしまったそうです。
すると、お父さんは、家族を守ることができなかった自己嫌悪などで茫然自失となり、朝からお酒を飲むようなり、まったく頼りにならなくなってしまったそうで、
五木寛之さんは、まだ中学1年生ながら、自分が弟と妹の面倒を見て一家を支えなければならないと思ったのだそうです。
ちなみに、五木寛之さんは、お父さんについて、
父は、貧しい農村から師範学校に入り、苦学して検定試験もたくさん受け、少しずつ少しずつ出世の階段を、爪で這い上がるようにして生きてきた人です。
少し良くなってきたかと思ったときに敗戦で、夢に描いた教育界での出世の階段も突然はずされてしまう。それどころか、職業も、最愛の妻も亡くしてしまったのです。
国語の教師として自分の思想の背景になっていた本居宣長とか平田篤胤とか賀茂真淵とか、そういう学問も突然禁じられてしまった。「剣道何段」と威張っていたことすら、むしろ恥ずかしいことでしかなくなってしまう。
こういうふうに、国家、民族の運命と個人的な自分の暮らし全部が一挙に崩壊してしまったのです。中学生の私は、何て情けない父親だろうと思っていましたけれども、父の立場になってみると、わかる気がしてきます。
あんなに凛々しく堂々として、朝夕、私に国語を講義したり、『日本書紀』を暗記させたり、剣道の切り返しをやらせたりして、「日本男児云々」と意気軒昂だったのが、もうグズグズの男に成り下がってしまった。
と、語っています。
五木寛之は15歳の時に帰国を果たすと行商などで家計を支えていた
こうして、その後2年間、五木寛之さんは、幼い妹を背負って、弟の手を引きつつ、意気消沈していたお父さんを連れて、朝鮮半島を転々とし、
ようやく38度線(朝鮮戦争の休戦ラインである朝鮮半島の南北を分断する緯線)を越えて開城に逃れると、1947年、ようやく、海を渡って帰国し、福岡県に引き揚げることができたのだそうです。
(北朝鮮から避難する際は、妹を置き去りにすることも考えたほど過酷な状況だったそうです)
また、五木寛之さんは、父方の祖父が住む福岡県三潴郡や八女郡などを転々としながら、行商などのアルバイトをして家計を支えたのだそうです。
五木寛之は16歳の時にゴーゴリやチェーホフなどのロシア文学を読むほか自身でも小説や詩を発表するようになっていた
そして、1948年、16歳の時には、旧制福岡県立八女中学校に入学すると、その後、新制光友中学校に転校したそうですが、
この頃あたりから、ゴーゴリやチェーホフなどのロシア文学を読むようになり、同人誌「グレープ」にも参加すると、自分でも、ユーモア小説や詩を書き、発表するようになったそうです。
五木寛之さんが中学・高校時代に作品を投稿していたという同人誌「グレープ」(右から1~3号)。
五木寛之の高校時代は新聞部で創作小説や映画評論を発表していた
また、中学卒業後は高校に進学すると、テニス部と新聞部に所属して、新聞部では創作小説や映画評論を発表するかたわら、
ツルゲーネフ、ドストエフスキーなど、引き続きロシア文学を好んで読んだそうです。
五木寛之は大学在学中に同人誌「凍河」や「現代芸術」に作品を発表していた
そんな五木寛之さんは、1952年、高校卒業後は、早稲田大学第一文学部露文科に入学すると、横田瑞穂教授の指導を受けたそうで、
ゴーリキーなどのロシア文学作品を読みふけると、同人誌「凍河」や「現代芸術」で作品を発表したそうです。
(この頃、詩人の三木卓さんとも知り合ったそうです)
また、音楽好きだった両親の影響で、ジャズや流行歌にも興味を持ち、聴くようになったそうです。
(ちなみに、”役に立つ学問”をしていた五木寛之さんのお父さんは、”役に立たない学問”ともいえるロシア文学に進んだ五木寛之さんに対し、「(ソ連は)母さんの仇だぞ」と一言つぶやいたものの、大学の入学金を用意するために奔走してくれたそうです)
五木寛之は25歳の時に学費が払えず大学を除籍されていた
そんな中、五木寛之さんは、生活費を稼ぐため、住み込みでの業界紙の配達や売血など、様々なアルバイトをしていたそうですが・・・
1957年、25歳の時、ついに、学費が払えず、除籍されてしまったのだそうです。
(後に作家として成功した後、未納の学費を納め、除籍から中途退学扱いに変更されたそうです)
「五木寛之の若い頃は?「青春の門」ほか代表作(書籍)と経歴まとめ!」に続く
1966年、34歳の時、「さらばモスクワ愚連隊」で作家デビューすると、いきなり、「第6回小説現代新人賞」を受賞し、翌年の1967年には、「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞も受賞した、五木寛之(いつき ひろゆき)さん。 そんな五 …