俳優の加東大介さんと元女優の京町みち代さんを両親に持ち、大学中退後は、デザイナーを経て、蕎麦(そば)屋になったという、異色の経歴を持つ、加藤晴之(かとう はるゆき)さん。
今回は、そんな加藤晴之さんの若い頃から現在までの経歴をご紹介します。
加藤晴之は成城大学中退後に車のデザインの勉強を始めていた
加藤晴之さんは、成城学園中学校高等学校からエスカレーター式で成城大学に進学したそうですが、
自分には向いていないと、大学1年生の時に退学すると、両親に頼み、2ヶ月間、欧州旅行をさせてもらったそうで、
そんな欧州旅行中、イタリアで、お母さんの知り合いの日本人デザイナー(車)に影響を受けると、帰国後は、車のデザインの勉強のために武蔵野美術大学に入学し、イタリア語も習い始めたそうです。
すると、そのイタリア語の先生がイタリアの車のデザインの名門会社「イタル」に勤める、デザイナーの宮川秀之さんを紹介してくれたそうで、
以降、加藤晴之さんは、宮川秀之さんが来日した際には、ドライバーを務めるようになると、「イタル」社でデザインの勉強をさせてもらえることになり、イタリアに渡ったのだそうです。
加藤晴之はSONYにデザイナーとして就職するも自然食に目覚め退職していた
加藤晴之さんは、イタリアから帰国後は、SONYにデザイナーとして就職したそうですが・・・
なんと、ある時、自然食に目覚めると、SONYを退職し、お母さんが所有する八ヶ岳の別荘に移住したといいます。
八ヶ岳には、知り合いはいなかったそうですが、カナディアンファームという自然の中で暮らす人々に出会うと、その中で出会った人が畑を貸してくれたそうで、
加藤晴之さんは、地元の人に助けてもらいながら、その借りた畑(二反、600坪)で自然野菜を作り始めたのだそうです。
加藤晴之は蕎麦の名店「翁」の店主に誘われ蕎麦打ちに転身していた
そんな中、八ヶ岳にある蕎麦(そば)の名店「翁」を訪れた際、オーナーの高橋邦弘さんと知り合うと、
高橋邦弘さんから、
自然農法で蕎麦を育ててみませんか
とのオファーを受けたそうで、
加藤晴之さんは、二つ返事で引き受けると、自然農法で1年かけて蕎麦を育て、200キロのソバを収穫することができたそうですが、
実は、加藤晴之さんは、SONYを退職後、退職金を使い切ってしまい、お母さんに借金をしている状態だったそうで、これからどのように暮らしていくかを考える中で、蕎麦屋をオープンすることを決意したそうで、
高橋邦弘さんに弟子入りを頼み込み、3ヶ月半の修行で蕎麦打ちの基本をマスターすると、その時、”出前蕎麦打ち”というサービスを思いつき、かつて勤務していたSONYの役員家族のパーティ会場で手打ち蕎麦を振る舞うと、
SONY時代の上司の紹介で雑誌「ターザン」に出前蕎麦打ちの記事を掲載してもらうほか、イタリア時代のデザイナー・宮川秀之さんの紹介で「日経トレンディー」にも記事を載せてもらったそうで、
このような取材や記事のおかげで、予約が入り、仕事は順調に進んだのだそうです。
(ちなみに、加藤晴之さんは、1994年、SONYを退職してから出前蕎麦屋を始めるまでを綴った書籍を出版しています)
加藤晴之の現在は?
そんな加藤晴之さんは、この”出前蕎麦打ち”の仕事を4年間務めた後、東京に、蕎麦店「黒森庵」をオープンしたそうですが・・・2011年、原発事故による放射能の食材への影響を考慮して休業。
この年、奥さんが他界したこともあり、まだ小学生だった娘さんたちを育てるため、専業主夫として過ごしたといいます。
そして、2023年には、12年ぶりに不定期臨時営業という形で、「スイーツ黒森庵」をオープンしているのですが、
成長した加藤晴之さんの娘さんたちが「黒森庵」を引き継ぎ、蕎麦ではなく、手作りパンやお菓子などを販売しているのだそうです。
ちなみに、加藤晴之さんは、もう、蕎麦打ちをされていないようですが、2025年現在、日常を綴ったブログを更新しており、お元気にはされているようです。
「加藤晴之の元妻は黒澤和子!再婚相手は?子供は息子2人と娘3人!」に続く
自動車デザイナーから蕎麦打ちに転身して、東京で蕎麦店「黒森庵」を経営すると、2011年には、原発事故による放射能の食材への影響で休業するも、2023年には、12年ぶりに、不定期臨時営業という形で「スイーツ黒森庵」を開業し …