1937年、16歳の時、名古屋軍(中日の前身)の投手としてデビューすると、延長28回を1人で投げ抜くなど、投手として活躍し、
太平洋戦争で肩を痛めた後の1946年、野手(一塁手)に転向した後は、強打者として活躍し、”(初代)ミスタードラゴンズ”と称された、西沢道夫(にしざわ みちお)さん。
今回は、そんな西沢道夫さんの若い頃(ルーキー)から現役引退までの活躍や経歴を時系列でご紹介します。
西沢道夫は16歳4日で公式戦デビューしていた
西沢道夫さんは、1935年、14歳の時、大日本野球連盟名古屋協会(⇒名古屋軍⇒中日ドラゴンズ)に養成選手として入団すると、
1937年9月5日、16歳と4日で、名古屋金鯱軍(なごやきんしゃちぐん)戦(洲崎球場)に7回から3番手として公式戦初登板を果たし、入団4年目の1940年、19歳の時には、20勝、防御率1.92で、一躍、主力投手となります。
1935年、14歳の時、大日本野球連盟名古屋協会(⇒名古屋軍⇒中日ドラゴンズ)に養成選手として入団すると、投手としては、1942年にノーヒットノーランを達成するほか、1947年までの通算9年間で60勝を挙げ、打者としても …
西沢道夫は20歳(中日ドラゴンズ入団6年目)の時に延長28回を1人で投げ抜き世界記録を更新していた
そんな西沢道夫さんは、入団6年目の1942年5月24日、20歳の時には、トリプルヘッダー3試合目の大洋戦(後楽園球場)に先発すると、
このシーズン、それまで1勝しかしていなかったにもかかわらず、大洋のエース・野口二郎投手と一歩も引かない投手戦を展開して延長28回を1人で投げ抜き、世界記録を更新。
1935年、14歳の時、大日本野球連盟名古屋協会(⇒名古屋軍⇒中日ドラゴンズ)に練習生として入団すると、1937年には、16歳と4日で公式戦デビューを果たし、1940年には、20勝、防御率1.92で、一躍主力投手となった …
また、このシーズンは、ノーヒットノーランも達成しています。
(照明設備などがない時代だったため、試合は日没のためゲームセットとなり、引き分けとなりました)
1942年5月24日、トリプルヘッダーの3試合目の大洋戦(後楽園球場)に先発すると、大洋のエース・野口二郎投手と一歩も引かない投手戦を展開し、なんと、延長28回(世界記録)を投げ抜いたという、西沢道夫(にしざわ みちお) …
西沢道夫は25歳(中日ドラゴンズ入団10年目)の時に新球団・ゴールドスターに移籍し打者に転向していた
しかし、翌年の1943年、太平洋戦争に召集されると、1946年にようやく復員するのですが、戦争中に肩を痛め、投手として思うような成績が残せなくなってしまいます。
そんな中、元同僚で先輩の、ゴールドスター(新球団)監督の坪内道典さんから打者として入団を誘われたそうで、
入団10年目の1946年シーズン途中、打者として再出発を図るべく、ゴールドスターに移籍したのでした。
1942年には、プロ野球史上最長の28イニングを投げぬくほかノーヒットノーランも達成した、西沢道夫(にしざわ みちお)さんですが、翌1943年のシーズンを最後に太平洋戦争のため応召(召集に応じて軍隊にはいること)されると …
西沢道夫は28歳の時に中日ドラゴンズに復帰した後は打者として大活躍していた
その後、西沢道夫さんは、毎日、猛特訓に明け暮れたそうで、その甲斐あり、打者転向3年目の1948年には、本塁打16本と、自身初の二桁本塁打をマーク。
そんな中、「金星スターズ(ゴールドスターから改称)」は「大映」に買収されてしまうのですが、
1949年、28歳の時、中日の天知俊一監督に打者としての才能を見初められて、熱心に誘われ、中日ドラゴンズに復帰すると、
- 中日復帰1年目の1949年には、打率.309、37本塁打、114打点(4月には25試合連続安打、5月には11試合連続打点(当時の日本記録))
- 中日復帰2年目の1950年には、打率.311、46本塁打(満塁ホームラン5本を含む)、135打点
- 中日復帰3年目の1951年は、打率.270、14本塁打、61打点と低迷するも、
- 中日復帰4年目の1952年には、打率.353、20本塁打、98打点で、首位打者と打点王の2冠王
- 中日復帰5年目の1953年には、打率.325、22本塁打、81打点
と、優れた成績を残し、
復帰6年目の1954年には、打率.341、16本塁打、80打点の活躍で、中日初のリーグ優勝&日本一に大きく貢献したのでした。
戦後、復員し、中部日本軍(後の中日)に復帰するも、応召(召集に応じて軍隊にはいること)中に肩を痛め、投手として十分な活躍ができなかったうえ、チーム内が内紛状態で嫌気が差していた中、かねてより、父親のように慕っていたという …
西沢道夫は34歳(中日ドラゴンズ復帰7年目)の時に一塁から外野にコンバートされ失踪していた
そんな西沢道夫さんですが、中日復帰6年目の1954年オフ、天知俊一監督が辞任し、翌1955年、正捕手だった野口明選手が選手兼任兼監督に就任して、一塁から外野へのコンバートを通告されると、これに抵抗し、失踪したといいます。
1949年、天知俊一監督に打者として見初められ、熱心に要請されて、中日に復帰すると、たちまち打者としての才能を開花させ、1952年には、首位打者と打点王の2冠王に輝くほか、1954年には、中日初のリーグ優勝と日本一に多大 …
西沢道夫は38歳の時に現役を引退していた
その後、西沢道夫さんは、外野へのコンバートが撤回され、引き続き一塁を守ることになると、
- 中日復帰7年目の1955年は、打率.261、14本塁打、53打点
- 中日復帰8年目の1956年は、打率.271、8本塁打、43打点
- 中日復帰9年目の1957年は、打率.280、7本塁打、49打点
- 中日復帰10年目の1958年は、打率.275、2本塁打、44打点
という成績を残し、
1958年オフ(西沢道夫さん38歳)、現役を引退したのでした。
1949年に打者に転向して以降は、強打者として活躍し、1954年の中日ドラゴンズ初のリーグ優勝&日本一にも多大な貢献をした、西沢道夫(にしざわ みちお)さんは、1958年には、この年、打率2割7分5厘と、まだ、余力があり …
1958年、引退試合で挨拶する西沢道夫さん。
投手でシーズン20勝、打者でシーズン40本塁打以上の両方の記録を持つNPB唯一の選手で、「初代ミスター・ドラゴンズ」と称された、西沢道夫(にしざわ みちお)さん。今回はそんな西沢さんの、凄すぎる現役時代の成績をご紹介しま …