現役時代には、史上初の3度の三冠王、監督時代には、在任8期全てAクラス&リーグ優勝4回と、選手としても監督としても素晴らしい成績を残した、落合博満(おちあい ひろみつ)さん。
そんな落合博満さんは、小学校に入学する前から、新聞で丸めたボールを棒で打つ遊びをするようになり、小学4年生の時には、お兄さんの影響で地元の児童野球チームに入って野球を始めると、
中学1年生の時には、いきなり、4番でエースに起用され、中学3年生の時には、弱小チームを地区大会の決勝進出に導いたといいます。
今回は、落合博満さんの、幼少期(生い立ち)から東芝府中時代までをご紹介します。
落合博満は小学4年生の時に野球を始めていた
落合博満さんは、農林省の役人だったお父さんと、和菓子屋を営むお母さんのもと、7人きょうだい(男3人、女4人)の末っ子として誕生すると、
小学校に入学する前から、新聞で丸めたボールを棒で打つ遊びをするようになり、小学4年生の時には、お兄さんの影響で、地元の児童野球チームに入り、野球を始めたそうです。
1978年、ドラフト3位でロッテオリオンズに入団すると、1981年には打率3割2分6厘で首位打者、1982年には史上最年少の28歳で三冠王、1985年には打率3割6分7厘、52本塁打、146打点という驚異的な成績で2度目 …
落合博満は中学3年生の時に弱小野球部を地区大会の決勝進出に導いていた
そんな落合博満さんは、中学に進学し、野球部に入部すると、いきなり、4番でエースに起用され、中学3年生の時には、1、2回戦で敗退する弱小チームを地区大会の決勝進出に導いたそうで、
決勝戦では、優勝は逃したものの、90メートルを超える本塁打を放って注目を浴び、秋田県内の幾多の野球名門校から入学の勧誘(推薦)を受けたそうです。
落合博満は高校1年生で4番・投手に起用されるも右肩と腰を痛め外野手に転向していた
それでも、落合博満さんは、推薦を受けず、秋田県立秋田工業高等学校に進学したそうで、高校でも、すぐに、4番・投手に起用されたそうですが、
入部3ヶ月で右肩と腰を痛めてしまったそうで、投手を断念して外野手に転向したそうです。
幼少期から新聞で丸めた球を棒で打つ遊びをし、小4の時には、お兄さんの影響で、地元の学童野球チームに入部したという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、中学でも高校でも、1年生にしていきなり4番を打っていたといいます。 …
落合博満は高校時代は野球部の上下関係に嫌気が差し入退部を繰り返していた
ただ、もともと練習が嫌いだったことや、野球部の上下関係に嫌気が差し、入部3ヶ月で練習に行かなくなると、やがては、学校に行くこと自体さぼるようになったといいます。
それでも、チーム一番の実力選手だったことから、大会1週間前にはチームに呼び戻され、試合では4番で出場すると、ホームランを量産したそうですが、
大会が終わると、また、学校に行かなくなったそうで、結局、落合博満さんは、高校3年間で、7回の入部と、8回の退部を繰り返したのだそうです。
中学高校共に、飛び抜けた打撃で、いきなり、1年生にして4番を打っていたという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんですが、高校では、先輩や同級生に何かと目の敵(かたき)にされ、難癖をつけられては殴られていたそうで、入部3ヶ …
落合博満は高校時代は毎日映画館通いに明け暮れるも自主トレーニングは怠らなかった
そんな落合博満さんは、高校時代は、学校をサボり、毎日、大好きな映画館通いをしていたそうですが、
野球に対しての情熱が消えたわけではなかったそうで、電柱をバットで叩いたり、山の中で素振りをするなど、自主トレーニングは続けていたのだそうです。
高校では、先輩や同級生に何かと目の敵(かたき)にされ、難癖(なんくせ)をつけられては殴られていたことから、入部3ヶ月で練習に行かなくなったという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、大会1週間前になると、先輩に呼び戻さ …
落合博満は東洋大学野球部入部も封建的な風習に嫌気が差して退部し大学も半年で中退していた
そして、1971年10月、高校3年生の時、東洋大学野球部のセレクションを勧められて参加すると、特大のホームランを連発して、見事合格し、東洋大学へ進学したそうですが・・・
ここでも、先輩が後輩に雑用を押し付けるような封建的な野球部の風習に嫌気が差し、野球部を退部すると、大学自体も半年で中退してしまったのだそうです。
秋田県立秋田工業高等学校時代は、封建的な野球部が嫌で、学校自体さぼり、毎日映画館通いをしていたにもかかわらず、チーム一番の実力者だったため、野球部の試合がある時だけ、試合に出場させられていたという、落合博満(おちあい ひ …
落合博満は19歳の時に東京芝浦電気の府中工場(東芝府中)に入社していた
そんな落合博満さんは、その後、郷里・秋田に戻ると、ボウリング場でアルバイトをしたことがきっかけで、プロボウラーを目指していたこともあったそうですが、
東洋大学野球部のセレクションに合格するも、またしても、高校時代同様に野球部の封建的な雰囲気に嫌気が差し、退部した後、大学自体も半年で中退したという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、その後、高校時代から住まわせてもら …
最終的には断念すると、やがて、再び、野球への情熱が高まり、1973年11月1日、秋田県立秋田工業高等学校時代の恩師である野球部部長・安藤晃さんの口利きで、東京芝浦電気の府中工場(東芝府中)野球部のセレクションを受けると、
見事、合格したそうで、東京芝浦電気の府中工場(東芝府中)に臨時工として入社したのだそうです。
落合博満は東芝府中在籍5年間(21歳~25歳)で通算70本のホームランを記録していた
すると、落合博満さんは、東芝府中の広いグラウンドで、生まれて初めて、無我夢中になって野球に打ち込んだそうで、バッティングはますます凄みが増し、1974年から1978年の東芝府中在籍5年間で通算70本のホームランを記録すると、
秋田県立秋田工業高等学校時代の恩師である野球部部長・安藤晃さんの口利きで、東京芝浦電気の府中工場野球部(東芝府中)のセレクションを受けると、見事合格し、東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社した、落合博満(おちあい ひ …
そんな落合博満さんのもとにはプロのスカウトも挨拶に来るようになったそうで、1977年のドラフト会議直前には、阪神タイガースのスカウトから指名の可能性を伝えられたのだそうです。
(ただ、実際には、阪神からは指名されなかったそうです)
東京芝浦電気の府中工場野球部(東芝府中)のセレクションに見事合格し、東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社すると、東芝府中の広いグラウンドで、生まれて初めて、無我夢中で野球に打ち込み、ますますバッティングに凄みを増した …
「【画像】落合博満の若い頃は?ルーキーから現役引退までの成績を時系列まとめ!」に続く
東芝府中を経て、1979年、ドラフト3位でロッテに入団すると、以降、史上初の3度の三冠王を含む、首位打者5回、本塁打王5回、打点王5回、最高出塁率7回、ベストナイン10回、MVP6回と凄まじい成績を残し、”天 …