1979年8月1日、小田和正さん率いる「オフコース」に正式に加入すると、以降、ドラムスとして活動し、1989年の解散まで「オフコース」に在籍した、大間ジロー(おおま じろう)さん。
そんな大間ジローさんは、小学生で太鼓、中学生でティンパニと、幼少期から打楽器に携わっていたそうで、
高校進学後は、レッド・ツェッペリンを聴いたことがきっかけでロックに夢中になると、高校3年生の時には、すでに、地元・秋田県では有名だった同い年の松尾一彦さんを誘い、ロックバンド「ドナルドダック」を結成したといいます。
今回は、大間ジローさんの幼少期(生い立ち)からドナルドダック時代までをご紹介します。
大間ジローのプロフィール
大間ジローさんは、1954年5月14日生まれ、
秋田県鹿角郡小坂町の出身、
身長165センチ
血液型はO型
学歴は、
秋田県立大館鳳鳴高等学校卒業?
だそうです。
大間ジローの本名は?芸名の由来は?
大間ジローさんの本名は、「大間仁世」(おおま ひとせ)というそうですが、
「ジロー」という芸名は、バンド「ジャネット(ドナルドダックから改名)」時代、個性派俳優として知られた大辻伺郎さんに似ていることから名付けられたそうです。
大間ジローは幼い頃は裕福な家庭で何不自由なく育っていた
大間ジローさんは、飲食店を経営する両親のもと、一人っ子として誕生すると、
幼い頃は、欲しい物は何でも買ってもらえるなど、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうです。
大間ジローは小学6年生の時に父親が他界していた
しかし、大間ジローさんが小学校6年生の時、お父さんが他界されると、一転、生活は苦しくなったそうです。
とはいえ、大間ジローさんは、
苦しいという実感はなかった。きっと母が見えないところで頑張ってくれていたと思う
と、語っています。
大間ジローが小学生の時は鼓笛隊で中太鼓のリーダー格だった
そんな大間ジローさんは、小学校時代、小学校で編成された鼓笛隊に属していたそうですが、
中太鼓を担当していたそうで、リーダー格として活躍したそうです。
大間ジローが中学生の時にはティンパニをしていた
また、大間ジローさんは、中学進学後は、吹奏楽部に入部し、ティンパニを担当したそうですが、
ビートルズを知ると、このことがきっかけとなり、英米のロックに興味を持つようになったのだそうです。
大間ジローは高校時代からロックにはまってバンド活動を開始していた
そして、高校時代には、レッド・ツェッペリンを聴いてロックにのめり込むと、バンド活動を始めるようなったそうで、
レッド・ツェッペリンのほかにも、ジェファーソン・エアプレーや、グランド・ファンク・レイルロードなどのニュー・ロックが好きだったといいます。
大間ジローは高校3年生の時に松尾一彦を誘いロックバンド「ドナルドダック」を結成していた
そんな大間ジローさんは、1972年、高校3年生の夏、同い年の松尾一彦さんがロックンロールを歌う姿を見て衝撃を受けたそうで、
翌年の1973年1月、松尾一彦さんの通う秋田県立能代高等学校に直接電話を入れて、
上京して『ロックンロールコンテスト(ロックンロール振興会主催)』に出場しよう
と、松尾一彦さんを熱心に誘うと、
松尾一彦さんらと共にロックバンド「ドナルドダック」を結成したのだそうです。
実は、大間ジローさんは、大舘在住のバンドマンだった陸川明彦さんに、
一緒に東京に出てプロになろう
と誘われ、バンドを結成することになっていたそうですが、
陸川明彦さんも、この時、
ギターとボーカルは松尾一彦しかいない
と、言っていたそうで、
大間ジローさんも、松尾一彦さんのステージを見て衝撃を受けていたことから、同じ思いだったのだそうです。
大間ジローは18歳の時に「ロックンロールコンテスト」に出場し準優勝していた
その後、大間ジローさんら「ドナルドダック」は、1973年3月末に行われた「ロックンロールコンテスト」に出場すると、
本番まで、わずかな練習期間しかなかったにもかかわらず、準優勝したそうで、その副賞として、日比谷野外音楽堂で開催された「ロックンロールカーニバル」に出演したのだそうです。
(この時、後に「オフコース」で共に活動することになる(バンド「ザ・バッド・ボーイズ」に所属していた)清水仁さんと初めて出会ったそうです)
「【画像】大間ジローの若い頃は?オフコースの前はジャネット(ドナルドダック)!」に続く
1979年に「オフコース」の正式メンバーとなると、解散まで、ドラムスとして「オフコース」の活動を支えた、大間ジロー(おおま じろう)さんですが、 「オフコース」に加入する前は、高校3年生の時に結成した「ザ・ジャネット」( …