中学2年生の時にドラムを始めると、中学3年生の時には幼馴染だった矢萩渉さんとバンドを結成し、高校進学後は、矢萩渉さんと共に六土開正さんのバンドに参加して、洋楽のコピーを中心に演奏活動を行っていたという、田中裕二(たなか ゆうじ)さん。

そんな田中裕二さんは、1977年、20歳の時には、「六土開正バンド」が玉置浩二さん率いる「安全地帯」に吸収合併される形で、六土開正さん、矢萩渉さんと共に「安全地帯」に合流しているのですが、1978年11月には、玉置浩二さんと揉め、「安全地帯」を脱退していたといいます。

今回は、田中裕二さんの中学時代(生い立ち)から「安全地帯」に再加入するまでをご紹介します。

田中裕二

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田中裕二のプロフィール

田中裕二さんは、1957年5月29日生まれ、
北海道旭川市の出身、

血液型はO型、

ちなみに、「田中裕二」は本名で、「裕二」として活動していたこともあったそうです。

田中裕二は中学2年生の時にドラムを始めていた

田中裕二さんは、自動車整備工だったお父さんのもとに誕生すると、中学2年生の時、旭川で行われたアマチュアのコンサートを友達と観に行ったことがきっかけでドラムを始めたそうですが、

友達と、ギターをやれ、ベースをやれと言い合っている中、誰もドラムをやると言わなかったことから、

オレ、ドラムやるよ

と言って、ドラムをすることになったそうです。

(ただ、以前から、ドラムを「いいな」と思っていたそうです)

田中裕二は中学3年生の時に矢萩渉とバンドを結成していた

そんな田中裕二さんは、当初は、みんなで家に集まり、おぼんを叩いたりしてドラムの練習をしていたそうですが、

6歳の時からの幼馴染(おさななじみ)で、同じく音楽が好きだった同級生の矢萩渉さん(後の「安全地帯」のギター)と親交を深めると、1972年、中学3年生の時には、矢萩渉さんとバンドを結成したそうです。

田中裕二は高校1年生の時に「六土開正バンド」に参加していた

その後、田中裕二さんは、高校進学後の1973年には、六土開正さんと知り合うと、矢萩渉さんと共に、六土開正さんが新たに結成した「六土開正バンド」に参加したそうで、

「オールマン・ブラザーズ・バンド」などのサザン・ロックのコピーを中心に演奏活動をするようになったそうです。

(「六土開正バンド」は、田中裕二さん、六土開正さん、矢萩渉さんの3人編成だったそうです)

六土開正バンド

ちなみに、そんな中、田中裕二さんは、高校1年生の時、交通事故に遭い、右太ももを骨折したそうで、補強のため、右太ももに鉄の棒を入れられ、半年間の入院を余儀なくされたそうですが、2度目の手術で鉄の棒を除去し、その後は、無事に回復したそうです。

田中裕二は20歳の時に「六土開正バンド」が吸収合併される形で「安全地帯」に合流していた

その後、田中裕二さんは、旭川にある楽器店に出入りしていたそうですが、そこには、音楽好きの人々が自然に集まって来ていたそうで、

その中にいた玉置浩二さんと知り合うと、やがて、玉置浩二さんのバンド「安全地帯」のメンバーとも親交を深め、

1977年12月、20歳の時には、「六土開正バンド」が「安全地帯」に吸収合併される形で、「安全地帯」に合流したそうで、

田中裕二さんは、その経緯について、

彼(玉置浩二さん)のバンドが安全地帯で、当時からオリジナルをやっていたんです。

ボクら(「六土開正バンド」)はZZトップなどをハードにやっていたんですが、コージたちはもっとハードにやりたいと考えていたし、ボクたちはオリジナルがほしかった。それで一緒にやることにしたんです。

一緒になったころから、安全地帯は北海道でもかなり有名なバンドで、コンテストもほぼ総ナメみたいな状態でした。それで、これからどう展開していこうか、なんて話をしていたんです。

と、語っています。

ちなみに、「安全地帯」は、この時、田中裕二さん(ドラムス)、矢萩渉さん(ギター)、玉置浩二さん(ボーカル)、宮下隆宏さん(ベース)、武沢豊さん(ギター)、武沢俊也さん(キーボード)、大平市治さん(ドラム)、六土開正さん(キーボード)の、8人編成となっていたそうです。

北海道時代の「安全地帯」
北海道時代、8人編成だった時の「安全地帯」より。後列左端が田中裕二さん。

田中裕二は21歳の時に「安全地帯」を脱退していた

そんな田中裕二さんたち「安全地帯」のメンバーは、1978年2月には、自分たちのスタジオを作ろうと、北海道旭川市郊外の永山地区に廃農家を借り、

改築して、練習スタジオ「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション」(略称MFP=”音楽を耕す農夫集団”の意)を4ヶ月かけて完成させ、共同生活をスタートさせたそうですが・・・

「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション」完成の打ち上げの際、田中裕二さんと玉置浩二さんが揉め、

その仲裁に入った宮下隆宏さんのパンチが玉置浩二さんの鼻を直撃して、玉置浩二さんは入院・手術を余儀なくされ、2ヶ月間、活動に参加することができなくなったそうで、

同年11月、田中裕二さんは、宮下隆宏さんと共に「安全地帯」を脱退したのだそうです。

ちなみに、田中裕二さんが、ワンマンだったという玉置浩二さんについていけなくなったと言われているのですが、

田中裕二さんは、

(「安全地帯」が井上陽水さんに誘われて上京するまで)ええ。それがいろいろあってね。メンバーも若くて、難しい時期でした。結局、ベース(宮下隆宏さん)とボクが抜けて6人になった。

と、語っています。

(「安全地帯」は、1981年、井上陽水さんのコンサートツアーのバックバンドに抜擢されて上京しているのですが、田中裕二さんは、井上陽水さんの1回目のツアーには参加していません)

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田中裕二は24歳の時に「安全地帯」に再加入していた

「安全地帯」脱退後、田中裕二さんは、家業の自転車屋を継ぎ、

あいつら成功すればいいな

との思いで、「安全地帯」の活動を見ていたそうですが、

しばらくして、家業の自転車屋が軌道に乗った頃、

玉置浩二さんから、

もう一度やらないか

と、話がきたそうで、

(「安全地帯」は、1982年2月25日にファーストシングル「萠黄色のスナップ」でレコーデビューしているのですが、ドラマーの大平市治さんが脱退したことで、田中裕二さんに声がかかったのだそうです)

一度は断ったものの、

これでドラムをやめたら安全地帯が成功しても失敗しても、きっと後悔する

と、思い、

”家業”という安全な道を捨てて、もう一度、挑戦してみようと思ったそうで、

1982年4月、「安全地帯」に再加入したのだそうです。

「【画像】田中裕二の若い頃は?「安全地帯」再加入から死去までの経歴は?」に続く

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