1982年、24歳の時、「安全地帯」として、シングル「萠黄色のスナップ」でレコードデビューして以来、脱退と加入を繰り返しながらも、長年、「安全地帯」の活動を支え続けてきた、武沢豊(たけざわ ゆたか)さん。
そんな武沢豊さんは、小学5年生の時にギターを始めると、中学2年生の時には、転校先の中学校で同じクラスだった玉置浩二さんとバンドを結成していたといいます。
今回は、武沢豊さんの幼少期(生い立ち)からヤマハのコンテストで北海道代表となるまでをご紹介します。
武沢豊のプロフィール
武沢豊さんは、1958年5月16日生まれ、
北海道旭川市の出身、
学歴は、
旭川市立神居中学校
⇒高校は不明
血液型はAB型、
ちなみに、「武沢豊」は本名で、「武沢侑昂(読み方同じ)」名義も使用しています。
武沢豊の兄は「安全地帯」の元メンバー・武沢俊也
武沢豊さんのお兄さんは、「安全地帯」の元メンバーで、ギターとキーボードを担当していた、武沢俊也さんです。
武沢俊也さんは、1973年4月に、武沢豊さん、玉置浩二さん、進藤雅仁さんが結成したバンド「インベーダー」(後に「安全地帯」に改名)に加入すると、
以降、作詞を担当し、作曲の玉置浩二さんと唯一無二のパートナーとして中心的存在で活動していたのですが、
「安全地帯」がキティレコードと契約を交わし、これからという1981年3月に脱退しています。
武沢豊は小学1年生の時に「ブラザーズ・フォー」の「花はどこへいった」を聴き音楽に興味を持つようになっていた
武沢豊さんは、1965年、小学1年生の時、親戚のお姉さんが聴いていた「ブラザーズ・フォー」の「花はどこへいったの」のメロディーの美しさに惹かれ、音楽に興味を持つようになったそうです。
武沢豊は小学5年生の時に通信教育でギターの練習を始めていた
そんな武沢豊さんは、やがて、「ベンチャーズ」に夢中になり、1969年、小学5年生の時には、友達からガットギターを譲り受け、通信教育でギターの練習を始めたそうで、
1971年、中学進学後すぐに、質屋で5千円の白いギターを買ったそうです。
ちなみに、初めて弾いた曲は、「青い三角定規」の「太陽がくれた季節」だったそうですが、コード譜などは一切見ず、自分で音を探って弾いたそうで、
後に、実際のコードとは違っていたことが分かったそうですが、それでも、自分で見つけた自分なりのコードで押し通すのが一番の方法だと確信して続けていたそうです。
(その気持は、今も変わっていないそうです)
武沢豊は中学2年生の時に玉置浩二と2人組のロックバンド「コショウ」を結成していた
その後、武沢豊さんは、1972年、中学2年生(14歳)の時、お父さんの転勤で旭川市神居に引っ越ししたそうですが、
転校先の旭川市立神居中学校で、玉置浩二さんと知り合うと、
おまえ、ギター弾けるか?
と、聞かれたそうで、
あー、弾けるよ
と、答えると、
じゃあ、弾いてみろよ
と、言われたことから、
通信教育の練習曲だったクラシックの曲を弾いたところ、
それを聴いた玉置浩二さんはびっくりし、すぐに、
いっしょにバンド組もうぜ!
と、誘ってきたそうで、
武沢豊さんは玉置浩二さんと2人組のロックバンド「コショウ」を結成し、音楽活動を始めたそうです。
(玉置浩二さんは、なぜ、武沢豊さんにギターが弾けるか聞いたのかよく覚えていないそうです)
武沢豊は中学2年生の時に玉置浩二とバンド「インベーダー」(後の安全地帯)を結成していた
その後、まもなく、武沢豊さん(ギター)と玉置浩二さん(ボーカル)は、同級生の進藤雅仁さん(ベース)を加えて、バンドを3人編成とすると、
(この時はまだ名前がなかったそうです)
翌1973年4月には、武沢豊さんのお兄さんの武沢俊也さん(ギター&キーボード)も加えて、4人編成とし、バンド名を「インベーダー」と変更して、ガロの「学生街の喫茶店」などを演奏するなど、フォークグループとして活動していたそうですが(第1期「安全地帯」)、
(ほどなくして、進藤雅仁さんの提案で、「安全地帯」と改名したそうです)
同年(1973年)11月、玉置浩二さんのお兄さんの玉置一芳さん(ドラム)と宮下隆宏さん(ベース)が加入すると、
「レッド・ツェッペリン」に憧れていた玉置一芳さんの影響で、「安全地帯」は、次第にロック色を強めていったそうです。
(進藤雅仁さんは、高校受験のため1974年に脱退しています)
武沢豊は18歳の時に「安全地帯」として「ヤマハポピュラーソングコンテスト」で北海道代表になっていた
そんな武沢豊さんたち「安全地帯」は、1973年、「ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」の第6回に初挑戦すると、
以降、第7回、第8回、第9回、第10回、第12回、第13回と、第11回を除く全てに出場したそうで、
第12回(1976年)では、「昔にみたもの」で北海道代表となり、初めて、全国大会の嬬恋(つまこい)本選会にエントリーされたのだそうです。
(優勝することはできなかったそうです)
「武沢豊の若い頃は?安全地帯のアマチュア時代は事故で長期入院していた!」に続く
中学生の時にクラスメートの玉置浩二さんとバンドを結成すると、その後、メンバーを増やし、「安全地帯」として、「ヤマハポピュラーソングコンテスト」に幾度となく挑戦するなど、積極的に音楽活動を展開していたという、武沢豊(たけざ …