1985年、小泉今日子さんに楽曲「Someday」を提供し、作曲家としての活動を開始すると、以降、1990年代に渡り、アイドルを中心に数々の楽曲提供をし、ヒットを連発した、井上ヨシマサ(いのうえ よしまさ)さん。

今回は、そんな井上ヨシマサさんの、若い頃(AKB48を担当する前)の代表曲(作曲)や経歴を時系列でご紹介します。

井上ヨシマサ

「井上ヨシマサの若い頃はYMOの前座にコスミックインベンションとして参加!」からの続き

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井上ヨシマサは19歳の時に小泉今日子のアルバム「FLAPPER」の収録曲「Someday」を作曲していた

高校卒業後、大学へは進学せず、作曲家の道を歩み始めた井上ヨシマサさんは、生活のため、他人への楽曲提供をしたいと思い、その機会を伺っていたそうですが、

ちょうど、そんな中、小泉今日子さんのアルバムを制作していたディレクターの田村充義さんに依頼され、「Someday」という曲を作ったそうです。

(この「Someday」は、小泉今日子さんが1985年7月にリリースしたアルバム「FLAPPER」に収録されています)

というのも、田村充義さんは、小泉今日子さんのアルバムを制作にするにあたり、

いろんな新人作家を使ったほうが、(小泉今日子さん)本人のためになる

と考え、積極的に新人を発掘・起用していたそうで、

都倉俊一さんや馬飼野康二さんといったプロの作曲家のほか、矢野顕子さん、大沢誉志幸さん、飯島真理さんといったシンガーソングライター、そして、井上ヨシマサさんを起用したのだそうです。

ちなみに、井上ヨシマサさんは、最初、すごく“アイドルっぽい曲”を田村充義さんに持っていったそうですが、

田村充義さんには、

それなら筒美京平さんに頼んだほうがいい

アーティストとしてアルバムを出す事が本当の目標ならば、歌いたいもの、書きたいものを作りなさい

などと言われて、突き返されていたそうで、

この出来事以来、井上ヨシマサさんは、アイドルのような曲を書くのをやめたといいます。

井上ヨシマサは20歳の時にアルバム「JAZZ」をリリース

こうして、井上ヨシマサさんは、アイドルを中心に、数々の楽曲提供するようになっているのですが、

そんな中、1987年2月21日には、自身のアルバム「JAZZ」もリリースしています。

(「原信夫とシャープス&フラッツ」が演奏で参加してくれたそうです)

「JAZZ」
「JAZZ」

井上ヨシマサは22歳の時に荻野目洋子に提供した「スターダスト・ドリーム」が初のオリコンシングルチャート1位に輝いていた

そして、楽曲提供では、同年(1987年)、

  • 石田ひかりさんの「エメラルドの砂」
    「エメラルドの砂」
    「エメラルドの砂」
  • 田原俊彦さんの「KID」
    「KID」
    「KID」
  • 小泉今日子さんの「Smile Again」
    「Smile Again」
    「Smile Again」

などを提供すると、

1988年4月27日には、荻野目洋子さんに提供したシングル「スターダスト・ドリーム」が初のオリコンシングルチャート1位に輝いたのでした。

「スターダスト・ドリーム」
「スターダスト・ドリーム」

井上ヨシマサは22歳の時に光GENJIに提供した「Diamondハリケーン」が累計売上68万枚の大ヒット

そんな井上ヨシマサさんは、同年(1988年)、光GENJIに提供したシングル「Diamondハリケーン」が、累計売上68万枚の大ヒットを記録をしているのですが、

「Diamondハリケーン」
「Diamondハリケーン」

実は、光GENJIは、その前に、ASKAさんが手掛けた「STAR LIGHT」(CHAGEさんとの共作)、「ガラスの十代」、「パラダイス銀河」がメガヒットを記録して、一躍、スーパーアイドルとなっており、

その直後のシングルということで、井上ヨシマサさんには、相当なプレッシャーがあったと思われた中、

井上ヨシマサさん本人はというと、

この時は、コンペがあったと思うのですが、普通ならプレッシャーで実力が発揮できませんよね?僕はね……できちゃうんですよ(笑)。

東京オリンピック2020の聖火リレーのBGMが選ばれた際もそうですが、全国民が聴くなんて、ものすごいプレッシャーのはずですよね?

僕の心境といえば、みんながどう聞くか? とか、選ばれなかったら? とかいう雑念は一つもなく、ただただ聖火リレーの曲を書けるんだ!と。希望にあふれるその時の気持ち、そのものを書くんだ!という思いで作りました。

だからこそ聖火リレーの「希望の道を繋ごう」というテーマにぴったりな曲になっています。 どう見られようとか、決まる決まらないを意識した時点で、書かなければならない物の本質を見失ってしまうのです。

と、語っています。

井上ヨシマサが23歳~25歳の時には、中山美穂、松田聖子、沢田研二、浅香唯、松本伊代、森川美穂の楽曲も作曲

その後も、井上ヨシマサさんは、

1989年には、

1990年には、

  • 「ブルーウォーター」(森川美穂さん)
    「ブルーウォーター」
  • 「ブルーウォーター」

1991年には、

など、次々とアイドルに楽曲を提供しています。

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井上ヨシマサは24歳の時に久保幹一郎と音楽ユニット「ATOM」を結成していた

ただ、井上ヨシマサさんは、作曲活動を続ける中、自分のアルバム制作が何も進んでいないことに気がついたそうで、一度、仕切り直そうと、作曲家ではなく、アーティストとしてやろうと考え、

1990年、24歳の時には、自分の会社を立ち上げ、マニピュレーターの久保幹一郎さんと、音楽ユニット「ATOM」を結成しています。

また、「ATOM」として活動する中でも、森川美穂さんに「ブルーウォーター」を提供しているのですが、

井上ヨシマサさんは、

周りから見たら、同じことをやっていると思われたかもしれませんけどね。でも自分としてはシンプルで納得できるものが作れた。自分の思うように書いても変な方向に行かないと確信が持てた。ならば曲の注文があれば拒むこともないかなと思ったんです

と、語っています。

予定に続く

お読みいただきありがとうございました

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