最初の妻・高森篤子さんと1973年に離婚すると、1979年には、台湾の歌手・白冰冰さんと結婚した、梶原一騎(かじわら いっき)さんは、2番目の妻・白冰冰さんとの間に、白暁燕(パイ・シャオイェン)さんという娘さんが誕生しているのですが、
白暁燕さんは、1997年4月、台湾で、身代金目的の誘拐・殺害事件に遭い、16歳で他界されています。
今回は、この、台湾史上最悪の誘拐事件とされ、台湾社会に大きな衝撃を与えた出来事の経緯、主犯格のその後、母親の白冰冰さんのその後についてご紹介します。
「梶原一騎の子供は息子3人娘3人!子育ては独自ルール!優しい父親だった?」からの続き
梶原一騎と2番目の妻・白冰冰の間には娘が1人
梶原一騎さんは、妻・高森篤子さんと離婚していた期間の1979年~1981年、台湾の歌手・白冰冰さんと結婚すると、1980年、白冰冰さんとの間に白暁燕(パイ・シャオイェン)さんという娘さんが誕生しているのですが、
梶原一騎さんと白冰冰さんは、白暁燕さんが誕生する前に別居し、白冰冰さんは台湾に帰国していたことから、白暁燕さんは、台湾で誕生し、そのまま白冰冰さんに育てられたといいます。
(そのため、梶原一騎さんが白暁燕さんと会ったことがあるかどうかは不明です)
梶原一騎さんの娘・白暁燕さん。
梶原一騎の娘・白暁燕の誘拐殺害事件とは
白暁燕は16歳の時に登校途中に誘拐され小指を切断されたうえ暴行を加えられていた
そんな白暁燕さんは、成長するにしたがい、有名人だったお母さんと共にテレビなどにも出演するようになったそうですが・・・
そんな中、1997年4月14日、高校1年生(16歳)の時、午前7時頃、登校途中の台北市郊外の自宅近くで、3人組の男(林春生、陳進興、高天民)に車で連れ去られ、アジトに連れ込まれたといいます。
その際、犯人らは、顔を見られないように鼻だけ出した状態で、白暁燕さんの頭部に黄色のゴムバンドを巻き、両手を縛った状態で左胸を露出させ写真を撮影したそうですが、
さらには、林春生が白暁燕さんの小指を切断し、激痛で泣き叫ぶ暁燕さんに、3人で暴行を加えたといいます。
白冰冰はすぐに警察に通報していた
そして、その夜、3人は、それぞれの自宅に帰り、翌日、母親の白冰冰さんに連絡をし、娘を誘拐したことと、指定した場所に行くことを指示したそうで、
白冰冰さんが指定された場所に行くと、写真3枚と切断された小指、身代金(500万台湾元(約2000万円))等を記載したメモを発見したそうで、すぐに警察に通報したのだそうです。
(誘拐の通報を受けた警察は、すぐに「0414特別案件」として捜査本部を設置し、身代金受渡時に、犯人を逮捕できるよう、計画を進めたそうです)
犯人は身代金の受け渡し場所に現れなかった
その後、同年(1997年)4月18日と4月19日、犯人と身代金の受け渡し交渉を行い、受け渡しの場所を決めたそうですが・・・
(この時、母親の白冰冰さん(警察)は、娘の白暁燕さんにしか分からない数点の質問を行い、白暁燕さんの安否を確認したそうです)
犯人は現れず、
4月23日にも犯人から連絡があり、身代金の受け渡しの場所を指定されたそうですが、この時も犯人は現れなかったのだそうです。
警察は4人を逮捕するも主犯格の3人を取り逃がしていた
そんな中、同年(1997年)4月25日、警察が犯人グループのアジトを発見して急襲し、4人を逮捕したそうですが・・・
主犯格である3人(林春生、陳進興、高天民)は取り逃がしてしまったといいます。
(加熱するテレビ中継やマスコミなどの報道から、犯人は、早い段階から、警察が動いていることを確認しており、もはや、目的は、身代金の入手ではなく、取引日を変えたり場所を移したりすることで、警察が対応に追われるのを観察し、警察の出方を見て、逃亡の時間を稼いでいたのではと考えられました)
白暁燕の無惨な遺体が発見されていた
実は、この時点までに、白暁燕さんは激しい暴行を受けた挙げ句に殺害されていたようで、同年(1997年)4月28日には、台北県泰山郷のドブ川で、白暁燕さんの遺体が発見されています。
ちなみに、その遺体は、原型を留めぬほどボロボロの無惨な姿だったそうで、発見者は、最初はブタの死骸かと思ったほどだったといいます。
また、長きに渡って多くの死体を検分してきた検視係官でさえも、
これほど凄惨な遺体を目にしたことはない
と、衝撃を受けるほどだったといいます。
白暁燕は凄惨な強姦・集団暴行を受け惨殺されていた
というのも、現金が渡れば家に帰れると信じていた白暁燕さんは、戻ってきた犯人グループの一味から、身代金受け渡しの失敗を聞き、泣き叫んでいたそうで、
これに激昂した犯人グループが、腹いせに、凄惨な強姦・集団暴行を加え、白暁燕さんをじわじわと苦しめて惨殺したそうで、
遺体は、手足を角材に縛り、重しをつけて、台北近郊のドブ川に遺棄したのだそうです。
白暁燕誘拐殺人事件の主犯格3人のその後
その後、主犯格の3人は、逃亡しながら、銃を使った強盗や市民への暴行を繰り返していたそうですが、
同年8月19日、高天民と林春生が台北市内で警察官に発見され、銃撃戦となると、林春生は6ヶ所の銃撃を受け自殺。
高天民は逃亡を続けたそうですが、同年11月17日、台北の石牌路で警官隊に包囲されると、再び銃撃戦となり、逃げ切れないと判断し、拳銃で自殺。
最後に残る陳進興は、南アフリカの大使館に侵入し、家族を人質に取る事件を起こしたそうですが、翌日の11月18日、投降し、逮捕。
そして、1998年1月22日、主犯で唯一逮捕された陳進興は、5件の誘拐・殺人・強盗に対し、死刑5回、別の暴行事件などで懲役刑合計59年9か月という判決を言い渡され、1999年10月6日、死刑が執行されています。
母親の白冰冰は手記「燕よ、空へ―慟哭を乗り越えて」を出版するほか死刑存続を訴え活動
一方、白暁燕さんの母親の白冰冰さんは、事件後、手記「燕よ、空へ―慟哭を乗り越えて」を出版するほか、
「白暁燕文教基金会」を設立して、社会安全・道徳教育・誘拐被害者の心身のケアに関する法律の制定及び死刑の存続を訴え、事件の発生した4月14日に合わせて、毎年、活動を行っており、
誘拐事件発生から丸12年になる2009年には、4月14日を前に、「暁燕への手紙」を書いているのですが、
そこには、
悲惨な事件が毎日のように起こっている。被害者は守られないのに、加害者は守られすぎている。当局がまた一部の人権団体の意見を受け入れて、死刑廃止に向かおうとしているけれど、みんなの身の安全はどうするの
と、行き場のない思いが綴られています。
さて、いかがでしたでしょうか。
梶原一騎さんの、
- 梶原一騎の生い立ちは?幼少期がヤバい!乱暴者で教護院に入れられていた!
- 梶原一騎のプロフィール
- 梶原一騎の国籍は?在日?本名は?ペンネームの由来は?
- 梶原一騎は幼少期から乱暴な性格で小学校を1年も経たないうちに退学させられていた
- 梶原一騎は小学2年生の時に宮崎県に疎開していた
- 梶原一騎は11歳の時にケンカに明け暮れ川崎の公立小学校も退学させられていた
- 梶原一騎は13歳の時に両親により教護院「東京都立誠明学園」に入れられていた
- 梶原一騎は17歳の時に教護院から東京都立芝商業高校を受験し合格していた
- 梶原一騎は高校進学後すぐに落ちこぼれ、ボクシングを始めるも鬱屈した感情が収まらなかった
- 【画像】梶原一騎の若い頃(漫画原作者デビュー)から死去までの作品や経歴は?
- 梶原一騎は高校1年生(17歳)の時にボクシング小説「勝利のかげに」が入選していた
- 梶原一騎は20歳の時に「力道山物語」を発表したことで力道山本人と親しくなっていた
- 梶原一騎は26歳の時に連載漫画「チャンピオン太」がテレビドラマ化されて高視聴率を記録していた
- 梶原一騎は30歳の時に漫画「巨人の星」が大ヒット
- 梶原一騎は31歳の時に「柔道一直線」「夕やけ番長」が大ヒット
- 梶原一騎は32歳の時にボクシング漫画「あしたのジョー」が大ヒット
- 梶原一騎は37歳の時に純愛漫画「愛と誠」が大ヒット
- 梶原一騎は39歳の時に映画産業にも進出していた
- 梶原一騎は47歳の時に傷害事件で逮捕され、連載中の漫画作品が全て打ち切られ、単行本も絶版となっていた
- 梶原一騎は48歳の時に懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けていた
- 梶原一騎は49歳の時に漫画原作者から小説家に転向していた
- 梶原一騎は50歳で死去
- 梶原一騎の漫画作品(原作)
- 梶原一騎は事件を起こして逮捕され有罪判決を受けていた!アントニオ猪木とも?
- 梶原一騎は「月刊少年マガジン」副編集長暴行事件を起こして逮捕され有罪判決を受けていた
- 梶原一騎は過去の暴力事件や脅迫事件も明らかとなり一気に地位と名声を失っていた
- 梶原一騎は「アントニオ猪木監禁事件」を起こしていた
- 大阪リーガロイヤルホテルで「猪木を呼べ!」と要求していた
- 真の被害者はアントニオ猪木ではなく新間寿
- アントニオ猪木の証言
- 事件の背景
- タイガーマスクの権利を巡る確執があった
- 梶原一騎は寛水流空手設立に強い不満を抱いていた
- 梶原一騎の死因は?病気で4度手術!辞世の句は?死の直前に鉛筆を削っていた!
- 梶原一騎は46歳の時に「壊死性劇症膵臓炎」と診断されていた
- 梶原一騎の「壊死性劇症膵臓炎」は長年の暴飲暴食が原因だった
- 梶原一騎は「壊死性劇症膵臓炎」の治療のため4度の手術を受けていた
- 梶原一騎の死因は?辞世の句は?
- 梶原一騎は死の直前に鉛筆を削っていた
- 梶原一騎は池上季実子を愛人に?松坂慶子、島田陽子ほか女優多数とも?
- 梶原一騎は、松坂慶子、竹下景子、由美かおる、天地真理、多岐川裕美、島田陽子らと関係を持っていた?
- 梶原一騎は松坂慶子から枕営業されていた?日本刀を突きつけて脅迫していた?
- 梶原一騎は池上季実子を愛人にしていた?
- 梶原一騎は女性遊びが激しかった?
- 梶原一騎の最初の妻と再婚相手との離婚理由は?3番目の妻は最初の妻!
- 梶原一騎の最初の妻は?
- 梶原一騎の最初の妻・高森篤子との離婚理由は?
- 梶原一騎は白冰冰と再婚するも2年足らずで離婚していた
- 梶原一騎は最初の妻・高森篤子と再婚していた
- 梶原一騎の子供は息子3人娘3人!子育ては独自ルール!優しい父親だった?
- 梶原一騎は妻・高森篤子との間に子供は5人(息子3人、娘2人)
- 梶原一騎の子育てには独自のルールがあった
- 梶原一騎は子供たちには厳しくも優しい父親だった
- 梶原一騎は息子と一緒に流行歌を口ずさんでいた
- 梶原一騎は子供たちに自分のことを「パパ」と呼ばせていた
- 梶原一騎の娘・白暁燕の誘拐殺害事件が酷い!犯人のその後は?母親・白冰冰は?
- 梶原一騎と2番目の妻・白冰冰の間には娘が1人
- 梶原一騎の娘・白暁燕の誘拐殺害事件とは
- 白暁燕は16歳の時に登校途中に誘拐され小指を切断されたうえ暴行を加えられていた
- 白冰冰はすぐに警察に通報していた
- 犯人は身代金の受け渡し場所に現れなかった
- 警察は4人を逮捕するも主犯格の3人を取り逃がしていた
- 白暁燕の無惨な遺体が発見されていた
- 白暁燕は凄惨な強姦・集団暴行を受け惨殺されていた
- 白暁燕誘拐殺人事件の主犯格3人のその後
- 母親の白冰冰は手記「燕よ、空へ―慟哭を乗り越えて」を出版するほか死刑存続を訴え活動
について、ご紹介しました。
数々のヒット作を生み出し、スポーツ漫画の金字塔を打ち立てた梶原一騎さん。
50歳という若さで他界されましたが、今もなお、情熱と迫力にあふれたその物語は、多くの読者の心を熱くし続けており、その功績は永遠に語り継がれていくことでしょう。
1953年、17歳で、小説を執筆するようになると、1962年には、漫画の原作を手がけるようになり、以降、「巨人の星」や「あしたのジョー」などの作品を次々と世に送り出した、梶原一騎(かじわら いっき)さんですが、 幼い頃か …