1968年に「ザ・フォーク・クルセダーズ」を解散した後、作詞家として活動する中、1971年4月、加藤和彦さんと連名で、「あの素晴しい愛をもう一度」をリリースすると、ロングヒットとなった、北山修(きたやま おさむ)さん。

今回は、北山修さん本人のコメントを交えつつ、「あの素晴しい愛をもう一度」がリリースされた経緯をご紹介します。

北山修と加藤和彦

「【画像】北山修の若い頃(ザ・フォーク・クルセダーズ時代)の楽曲や経歴は?」からの続き

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北山修は24歳の時に加藤和彦と「あの素晴しい愛をもう一度」をリリースしロングヒットなっていた

1968年、予定通り、1年で「ザ・フォーク・クルセダーズ」を解散した北山修さんは、その後も、作詞家として活動すると、

1971年4月5日、24歳の時には、加藤和彦さんと連名で、シングル「あの素晴しい愛をもう一度」をリリースしているのですが、

若い世代の間に”喪失感”や”シラケ感”が浸透していた1970年代初頭において、爽やかなメロディやリズミカルで軽やかなこの曲は、ロングヒットを記録しています。

「あの素晴しい愛をもう一度」
「あの素晴しい愛をもう一度」

「あの素晴しい愛をもう一度」は北山修が加藤和彦の結婚祝いに作った歌詞だと発表していたが・・・

ちなみに、当初、北山修さんと加藤和彦さんは、この曲を作った経緯について、

1970年、北米を回るツアーの途中、カナダのバンクーバーで行われた加藤和彦さんと福井ミカさんの結婚式で、北山修さんがお祝いにプレゼントとして歌詞を贈ったと説明していたのですが・・・

結婚のお祝いにしては、歌詞の内容(別れの歌)がふさわしくなく、不思議に思われていました。

「あの素晴しい愛をもう一度」はもともと「シモンズ」のデビュー曲として作ったものだった

実は、加藤和彦さんが、女性デュオ「シモンズ」のデビュー曲の制作を依頼されて曲を作り、北山修さんの自宅の留守番電話に「ラランララン」とメロディーを吹き込んだものを、北山修さんが一晩で歌詞を書き上げ、翌日、加藤和彦さんの自宅の留守番電話に吹き込んだところ、

すぐに、加藤和彦さんから連絡があり、

最高だよ最高

良い曲(歌詞)をどうもありがとう!

と、はしゃぐ声が聞こえたそうで、

北山修さんは、

稀代の天才は表面的には遊んでいるように見えて、それを厳しく見つめる評論家のような分身を自らの内に抱え込んでいる。厳しい加藤は、もちろん自分自身にも、そして共作者の私も厳しかったし、私が何回書き直してもダメ出しが続いたものだ。

ところが、良い作品ができた途端に、天使のように微笑んでくれた。忘れもしない、「あの素晴らしい愛をもう一度」の歌詞ができた日、「最高だよ最高」と言って、はしゃぐ電話の声が今でも耳に聞こえる。

時間にして、彼の作曲が1日、私の作詞が1日という短さだった。

歌は瞬間芸術だ。(構想に長い時間をかける作品も少なくない映画などと異なり)大きな動きに満ち満ちた瞬間に生まれ落ちることがある。この歌の歌詞もそんな瞬間を経験し、一晩でできあがった

などと、あまりにもいい曲だったため、

「シモンズ」に提供するのが惜しくなり、自分たちのものにしようとなったというのです。

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北山修が加藤和彦の結婚祝いに作った歌詞だと嘘をついた理由とは?

では、なぜ、北山修さんが加藤和彦さんの結婚祝いに作った歌詞だと嘘をついたかですが・・・

「ザ・フォーク・クルセダーズ」が解散したにもかかわらず、なぜまた2人でレコードを出したのかと質問された時、すんなり納得してもらうため、北山修さんが加藤和彦さんの結婚のお祝いに作ったということにしたそうで、

北山修さんは、

加藤が言ったよ。「それじゃ、ミカ(福井ミカさん=加藤和彦さんが1970年代に入ってすぐに結成したサディスティック・ミカ・バンドのボーカル)と結婚するから、その祝いに作ったことにしよう」ってね。別れの詞なのに、むちゃくちゃだ。

と、語っています。

「北山修の若い頃から現在までの作詞作品や著書(精神科医)ほか経歴は?」に続く

北山修と加藤和彦
加藤和彦さん(左)北山修さん(右)。

お読みいただきありがとうございました

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