世界を舞台に、数多くの「日本人初の快挙」を達成し続け、「世界のオザワ」と称されるようになった、小澤征爾(おざわ せいじ)さんですが、
実は、「N響(NHK交響楽団)事件」と呼ばれる事件をきっかけに、本格的に日本から飛び出して海外に活動の場を移すことになったといいます。
今回は、小澤征爾さんが世界を目指すきっかけとなった「N響(NHK交響楽団)事件」について、ご紹介します。

「小澤征爾の死因は?晩年は約20年に渡る壮絶な闘病をしていた!」からの続き
「N響(NHK交響楽団)事件」の背景
1962年、当時27歳だった小澤征爾さんは、指揮者として、N響(NHK交響楽団)と半年間の契約を結ぶと、
(客演指揮者という肩書だったそうですが、このシーズンは常任指揮者はおらず、小澤征爾さんが実質的な常任指揮者だったそうで、1962年6月20日~10月22日までの23演奏会のすべてと、11月、12月の定期公演と「第九」の演奏会を指揮する契約だったそうです)
同年7月には、メシアンの「トゥランガリラ交響曲」を日本で初演するなど、意欲的なプログラムで取り組み、夏は北海道で、10月2日からは、沖縄のほか、香港、シンガポール、クアラルンプール、マニラと海外でも公演したそうです。
しかし、この海外ツアーの頃から、小澤征爾さんが遅刻をしたりミスをするなどの理由で、楽団員たちとの関係がギクシャクするようなり、
(大半の楽団員たちは小澤征爾さんよりも年上で、しかも、N響(NHK交響楽団)の楽団員は東京藝術大学の卒業生が多く、まだ設立したばかりだった桐朋学園出身の小澤征爾さんを見下す雰囲気にあったそうです)
そこへきて、11月の定期演奏会が新聞で酷評されてしまったことから、
楽団員代表による演奏委員会が、
今後小澤氏の指揮するコンサート、録音演奏には一切協力しない
と、表明する事態にまで発展してしまったのでした。
そして、楽団員たちは積極的に取材に応じ、小澤征爾さんが、いかに無礼な若者か、音楽の伝統を知らないかを言いふらしたことから、
マスコミは、小澤征爾さんを、
海外で賞をとり、チヤホヤされて増長した困った若者
と、批判したのでした。
(この状況に、演出家の浅利慶太さんや作家の石原慎太郎さんら同世代の若い文化人たちが憂慮し、小澤征爾さんを支援するために団結しています)
小澤征爾はN響(NHK交響楽団)から内容証明を受け訴訟を起こしていた
そんな中、小澤征爾さんは、N響(NHK交響楽団)から「協力できない」との内容証明を送りつけられたそうで、
小澤征爾さんも、これに対し、契約違反と名誉を傷つけられたとして訴訟を起こすと、
契約当事者であるNHKは、小澤征爾さんとの契約が12月末までだったため、穏便な解決策をとして、
体調不良ということにして、12月中はアメリカに滞在してほしい
と、申し出たそうですが、
小澤征爾さんはこれを拒否し、12月11日から13日の定期公演と、年末恒例の第九の指揮を務める意思を示したのでした。
小澤征爾はN響(NHK交響楽団)の対立で浅利慶太らに協力してもらっていた
しかし、楽団員たちは、1962年12月4日から始まったリハーサルに出席せず、翌5日には、事務局に小澤征爾さんの交代を要求。
すると、事務局は、12月6日、楽団員に対し、
定期公演に出演すれば第九は小澤征爾さんに指揮させない
という裏取引を持ちかけたそうですが、
12月8日、小澤征爾さんを支持する浅利慶太さんらが、NHKとの交渉の場で、
- 曲目変更
- 楽団員の協力保証
- NHKによる遺憾表明
と、3つの条件を突きつけるなど、意図的に挑発的な態度を取ったことから、
(これはNHKという巨大組織を巻き込んで問題を大きくする戦略だったそうです)
NHK幹部は、感情的になり、小澤征爾さんとの関係を断つことを決定。
12月10日、定期演奏会と第九の演奏会の中止を通告し、N響(NHK交響楽団)史上初めての「定期公演中止」となったのでした。
小澤征爾は「一人ぼっちの指揮者」を演じ世論を味方につけていた
それでも、小澤征爾さんが、公演予定日の12月11日、東京文化会館に行くと、ステージには、椅子、譜面台、指揮台が用意されており、すぐにでも演奏会が始められる状態になっていたそうで、
小澤征爾さんは、誰もいないステージに一人で座り、楽団員を待ち続けたそうですが・・・
実は、これは、石原慎太郎さんと浅利慶太さんが演出したものだったそうで、2人が、報道陣を呼び、小澤征爾さんに「孤独な天才」を演じさせたことで、
新聞には、「天才は一人ぼっち」「指揮台にポツン」といった見出しが躍り、「若き天才」が「権威主義的で狭量な楽団員」にいじめられているという構図が出来上がったそうで、世論は一気に小澤征爾さんに同情的になったのだそうです。
小澤征爾を支持する若き芸術家・文化人が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し世代間闘争へと発展していた
ちなみに、この問題は単なる指揮者と楽団のトラブルを超え、世代間の対立へと発展したそうで、
公演中止が決まると、石原慎太郎さんと浅利慶太さんのほか、三島由紀夫さん、谷川俊太郎さん、大江健三郎さん、團伊玖磨さん、黛敏郎さん、武満徹さんなど、若手芸術家・文化人たちが、「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、N響(NHK交響楽団)とNHKに質問状を送るなど、社会問題化しています。
小澤征爾はNHKと対立中「小澤征爾の音楽を聴く会」で指揮していた
そんな混乱の中、1963年1月15日、小澤征爾さんの恩師・シャルル・ミュンシュさんが日本フィルハーモニーへの客演のために来日しているのですが、
日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」による演奏会が開催され、小澤征爾さんが、日本フィルハーモニーをバックに、シューベルトの「未完成交響曲」やチャイコフスキーの交響曲第5番などを指揮すると、観客に熱狂的な拍手で迎えられています。
また、作家の三島由紀夫さんは、これを受け、翌日の朝日新聞に、「熱狂にこたえる道 小沢征爾の音楽会をきいて」というエッセイを寄稿し、
最近の聴衆は外国人演奏家に慣れて贅沢になっているが、これほど熱狂し、興奮と感激の嵐を巻き起こした音楽会はなかった。まさに江戸っ子の判官びいきが結集した
と、高く評価しています。
小澤征爾はNHKと和解するもN響(NHK交響楽団)に復帰することなくアメリカに旅立っていた
その後、1963年1月17日には、吉田秀和氏、黛敏郎氏らの仲介により、小澤征爾さんは、NHKと和解しているのですが、
これは、訴訟を取り下げるという意味で、N響(NHK交響楽団)に復帰するという意味ではなかったそうで、小澤征爾さんは、翌18日、羽田空港からアメリカへ旅立ったのでした。
ちなみに、この一連の出来事は「N響事件」と呼ばれるようになったのですが、
(N響側から見れば「小澤事件」ですが、世論が完全に小澤征爾さん側に立っていたため、「N響事件」という名称が定着したそうです)
もし、この時、小澤征爾さんが「深く反省」して頭を下げ、N響に復帰していたら、後の「世界のオザワ」は誕生しなかっただろうと言われています。
とはいえ、小澤征爾さんは、この時すでにヨーロッパとアメリカで名声を得ていたほか、カラヤン、バーンスタイン、ミュンシュという大物の支援と、最強のマネージメント会社もついていて、日本に留まる理由はなく、
その後、世界を舞台に、「日本人初の快挙」を達成し続けることとなったのでした。
「小澤征爾の兄弟は小澤克己・小澤俊夫・小澤幹雄!小沢健二は甥っ子!」に続く
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1973年から29年間に渡ってアメリカ・ボストン交響楽団の音楽監督を務めるほか、2002年には、東洋人初のウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任するなど、欧米で絶大な人気を博した、小澤征爾(おざわ せいじ)さん。 今回は、そ …




