1974年に「Funny Company(ファニー・カンパニー)」を解散後、1976年、23歳の時、アルバム「Who are You?」でソロデビューすると、1977年、24歳の時には、ヒットメーカーの筒美京平さんを紹介してもらい、シングル「哀愁トゥナイト」がヒットすると、

その後もコンスタントにヒットし、1979年、26歳の時には、シングル「セクシャルバイオレットNo.1」が60万枚を売り上げる大ヒットとなった、桑名正博(くわの まさひろ)さんですが、

その前後には、大麻取締法違反容疑や強制わいせつ致傷容疑で3度逮捕されるほか、アン・ルイスさんとの結婚&離婚もあり、波乱の生涯でした。

今回は、桑名正博さんの、若い頃(「Funny Company(ファニー・カンパニー)」解散以降)から他界されるまでの経歴を、ヒット曲などを交えながら時系列でご紹介します。

桑名正博

「【画像】桑名正博の若い頃(ファニーカンパニー時代)はキャロルと対バンも!」からの続き

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桑名正博は21歳の時に、加賀テツヤ、山本翔らと「ユグドラジル」を結成しアルバム「INTRODUCTION 1」をリリース

1974年、21歳の時、「Funny Company(ファニー・カンパニー)」を解散した桑名正博さんは、その後、加賀テツヤさん、山本翔さんらと、バンド「ユグドラジル」を組み、アルバム「INTRODUCTION 1」をリリースしています。

(ヒットとはならなかったそうですが、現在は名盤と高く評価されています)

桑名正博は23歳の時にアルバム「Who are You?」でソロデビュー

そして、1975年には、上京し、ソロ活動を開始すると、1976年、23歳の時には、RCAより、アルバム「Who are You?」でソロデビューしたそうですが・・・

こちらもセールス的には振るわなかったそうです。

(ただ、こちらも名曲揃いで、名盤と高く評価されています)

桑名正博は23歳頃にヒットメーカーの筒美京平を紹介されていた

そんな中、RCAの担当ディレクターだった小杉理宇造さんが、

ロックシンガーとしての実力を、よりメジャーな日本の音楽シーンで試すべきだ

と言って、当時のヒットメーカー・筒美京平さんを紹介してくれたそうで、

筒美京平さんに会い、歌を歌うと、筒美京平さんは、桑名正博さんの歌唱力、飾らない人柄、ルックスを気に入り、

桑名君、いいね!

と言って、「哀愁トゥナイト」(作詞:松本隆さん)という曲を提供してくれたのだそうです。

(この「哀愁トゥナイト」は、いわゆる”歌謡ロック”で、これまでロックを歌っていた桑名正博さんは、当初、戸惑ったそうですが、ボーカリストとして挑戦したい気持ちもあり、しっかり歌い切ると、筒美京平さんは、その見事な表現力に目を細めたといいます)

桑名正博が24歳の時には「哀愁トゥナイト」が売上20万枚に迫るヒットを記録していた

こうして、桑名正博さんは、1977年6月、24歳の時、「哀愁トゥナイト」をリリースすると、

(ルキノ・ビスコンティ監督の「山猫」に出演していたアラン・ドロンさんになぞらえ)「若き獅子」(貴公子)をイメージして売り出されたことから、雑誌で大きく取り上げられたほか、ラジオでも話題曲として頻繁に流れるようになり、約20万枚のセールスを記録するヒットとなったのだそうです。

「哀愁トゥナイト」

ただ、プロデューサーの寺本幸司さんによると、深夜に、酔った内田裕也さんから電話がかかってきて、

おまえは、桑名を芸能界に売ったのか!日本のロックを殺す気か!

お前、桑名を歌謡曲歌手にするつもりか!

などと、叫ばれたそうで、

寺本幸司さんが、

おれは、哀愁トウナイトは、ロックだと思うんだよね。裕也さん

と、言うと、

内田裕也さんは、

この裏切り者め

と言い、電話を切ったといいます。

桑名正博は24歳の時に大麻取締法違反とコカイン所持で逮捕され、懲役2年、執行猶予3年の判決が下されていていた

しかも、売り上げがもうすぐ20万枚に手が届きそうで、ヒットチャートに駆け上ろうとした矢先の1977年9月には、桑名正博さん(24歳)は、大麻取締法違反とコカイン所持で逮捕・起訴されて、懲役2年、執行猶予3年の判決が下されています。

ただ、当の本人の桑名正博さんは、2007年のインタビューで、大阪府警の某署にいた時のことについて、

麻薬取締官が、毎日、署まで迎えにきて、一緒に吸ってた仲間のことを言え、言われるねんけど、友だちを売ることはでけへんやん。

取締官は『あほやな、桑名君がかばってる奴がしゃべったから、君がここにおるんやないか』言うけど、それは僕のルールに反する。そのうち、取締官があきらめたんか、『暇やろ』いうてギターを持ってきてくれるようになってん

と、桑名正博さんらしいコメントをしています。

桑名正博は24歳の時、執行猶予中に父親に音楽を辞めて家業を継ぐよう言われていた

こうして、実家の大阪に戻った桑名正博さんは、「桑名興業」の社長だったお父さんに、これを契機に音楽業界を引退し、跡継ぎの修業に入るように言われたそうですが、

大阪では、行く先々で、

ファニカン(ファニー・カンパニー)の桑名正博が大阪に戻ってきた

と、熱いファンに取り囲まれ、

そのうち、もう一度表舞台に立ちたい、と思い始めたそうで、

桑名正博さんに類まれな才能を感じていた、小杉理宇造さんと筒美京平さんも、

罪は罪、才能は才能と割り切って、世間の晒し者になるという罰も受けたことだし、例え、執行猶予期間とはいえ、もう一度、活動を開始すべきだ

と、お父さんを説得してくれたそうですが、

お父さんは頑として許してくれなかったといいます。

そんな中、プロデューサーの寺本幸司さんによると、

ある時、お父さんに、新地のクラブに呼び出されて、

寺本くんね、あんたは、ああいう事件を起こして、引退させて、もう一回、そういう夢を見させるのか。うちはともかく正博に跡を継がせたいんだ

と、言われ、

寺本幸司さんが、

いや、お父さん。このまま泣き寝入りしたらあの才能が腐ってしまうし、もう1回チャレンジさせてください。そうじゃないと僕も桑名正博も周りにいる方々も終わりにできない

と言い、しばらく、お父さんと言い合いになったそうですが、

最終的には、

桑名正博を日本一にするなら

との条件で、東京行きを許してもらったそうで、

桑名正博さんは、再び、東京で音楽活動を続けることになったのだそうです。

(ちなみに、お父さんは、「日本一にしろ」とは言わず、「日本一に」で切ったそうです。また、寺本幸司さんは、気持ちが高ぶっていたこともあり、つい、「分かりました!」と返事をしてしまったそうです)

桑名正博は25歳~26歳の時に筒美京平&松本隆による「薔薇と海賊」「サードレディー」「スコーピン」がヒット

こうして、1978年7月5日、筒美京平さん&松本隆さんのコンビによる「薔薇と海賊」でのリリースで復帰した桑名正博さんは、

「薔薇と海賊」
「薔薇と海賊」

その後も、

  • 1978年11月25日「サードレディー」
    「サードレディー」
    「サードレディー」
  • 1979年4月21日「スコーピン」
    「スコーピン」
    「スコーピン」

と、シングルをリリースすると、いずれもスマッシュヒットとなったのでした。

ちなみに、桑名正博さんは、「サードレディー」がヒットした後、バンド「桑名正博&Tear Drops」を結成し、ライブ活動をするようになったそうですが、

ステージでは、ヒットしたシングル曲はあまり歌わず、素の自分が出せるオリジナル曲(ロック)を歌うことが多かったそうで、

桑名正博さんは、その理由について、

京平さんの曲には、いつも入りこめるけど、松本の言葉がいつも引っかかるんですわ

と、松本隆さんの書く詞が苦手だったことを明かしています。

(名家の出身ながら、16歳で学校をドロップアウトし、反社会的なリズムを持つリズム&ブルースを目指してきた桑名正博さんに対し、松本隆さんは、小学校から大学まで慶應義塾で青山育ちと正真正銘のエリートだったことから、松本隆さんの描く世界観は共感できなかったのかもしれません)

桑名正博は26歳の時に「セクシャルバイオレットNo.1」が累計売上60万枚の大ヒット

そして、1979年7月21日(桑名正博さん26歳)、「セクシャルバイオレットNo.1」をリリースすると、カネボウのキャンペーンCMソングに起用されたこともあり、オリコンチャート1位を記録して累計売上60万枚を売り上げる大ヒットを記録。

同年12月には、日本武道館コンサートでも大成功を収め、桑名正博さんは、名実ともにナンバーワンの座に輝いたのでした。

「セクシャルバイオレットNo.1」
「セクシャルバイオレットNo.1」

ちなみに、この曲でも、桑名正博さんは、松本隆さんの歌詞について苦言を呈していたそうで、

プロデューサーの寺本幸司さんは、

桑名が、「うすい生麻(きあさ)に着替えた女は、くびれたラインが悲しい」という内容のあたまのところを指差して、「寺さん。うすい生麻って、何ですのん?こんな女、声も掛けたくないんやけど・・・」と言うものだから、確か、東神奈川の丘の上にあった、カネボウ化粧品部の工場に連れて行った。

この商品(口紅)を開発しイメージを作った人たちに会わせたかった。クリエーターの彼ら彼女らが「こんな女のひとに使ってもらいたい」と、熱く言う言葉に桑名は、眼を輝かせた。

と、語っています。

桑名正博は26歳の時に女性トラブルや大麻パーティーなど不祥事が続いていた

そんな桑名正博さんは、1980年3月5日、26歳の時には、アン・ルイスさんと結婚すると、1981年5月には、長男が誕生するなど、公私ともに順調満帆だと思われていたのですが・・・

同年(1981年)9月29日、19歳の女性ファンに対する強制わいせつ致傷容疑で逮捕されると(示談が成立し不起訴処分)、

同年12月25日には、9月に大阪の実家で開いていたパーティーで大麻を使用したとして、大麻取締法違反容疑で取り調べを受け、容疑を認める供述をするなど、不祥事が続きます。

(1984年にはアン・ルイスさんと離婚しています)

桑名正博は37歳の時に父親が他界したことをきっかけに活動の拠点を東京から大阪に移していた

それでも、桑名正博さんは、その後も、東京に拠点を置いて音楽活動を続けると、

陰ながら音楽活動を支え続けてくれていたお父さんが他界したことをきっかけに、1990年、37歳の時には、お父さんへの恩返しにと、家業を継ぐため、活動拠点を地元・大阪に移し、

1998年~2002年は、「THE TRIPLE X」というバンドを結成して活動しています。

桑名正博は47歳の時に「桑名興業」の社長に就任するもバブル崩壊の煽りを受け会社は倒産していた

そして、桑名正博さんは、2000年5月には、「桑名興業」の社長に就任し、社長業と音楽活動を両立させつつ、チャリティ活動にも携わっていたそうですが、実は、この時、すでに、会社はバブル崩壊の煽りを受け、経営は火の車だったそうで、

音楽活動を最小限に抑えつつ、700坪の豪邸も売り払うなど、力を尽くしたそうですが、立て直すことはできず、多額の借金を背負って倒産してしまったのだそうです。

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桑名正博は59歳で死去

その後の詳しい経緯は不明ですが、桑名正博さんは、「静かな生活がしたい」と、2006年、生まれ育った大阪を出て、長野・軽井沢へ移住すると、少しずつ音楽活動を再開していたそうですが、

2012年7月15日早朝、大阪市内のマンションで脳幹出血により倒れ、大阪市住之江区の友愛会病院に緊急搬送されると、意識が戻らないまま、入院から104日目の同年10月26日、脳幹出血により、59歳で他界されたのでした。

(※軽井沢から大阪に戻ってきていたのかも不明です)

「桑名正博の死因は?104日間意識不明!葬儀後は御堂筋桑名パレードも!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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