デビュー曲「心のこり」の大ヒット以降、低迷していた細川たかし(ほそかわ たかし)さんですが、1981年、萩本欽一さんにバラエティの才能を見出され、「欽ちゃんのドコまでやるの」にレギュラー出演するようになると、たちまち、持ち前の明るい性格で番組の人気者となり、番組内で披露した「北酒場」が大ヒット。以降、次々にヒットを連発するようになったのでした。


「細川たかしの若い頃は?年齢は?本名は?心のこり?」からの続き

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「8時だよ!全員集合」のコントでアキレス腱を切断

1975年4月、デビュー曲「心のこり」が大ヒットを記録したものの、
その後のシングルは売上が伸びず、低迷してしまった細川さんは、

テレビで顔を売ろうと思われたのか、バラエティ番組
「8時だよ!全員集合」にゲスト出演するようになるのですが、

「8時だよ!全員集合」に出演時の細川さん。
両隣は当時うわさの松田聖子さんと郷ひろみさん。

ある回(1981年春)、坂道の上にある一軒家に駆け上がって、
滑り落ちるコントをされていると、カカトを蹴られたような感じで怪我をし、
番組が終わって病院に行くと、「アキレス腱切断」との診断。

治療には手術が必要で、2ヶ月の入院、
そして、仕事は3ヶ月先までキャンセルせざるを得なくなってしまいます。

萩本欽一に見出され「欽ドコ」にレギュラー出演

そんな細川さんは、当初は、

人がテレビで歌っているのを見てアセってました。
僕はこのまま終わってしまうのではないかって・・・

と、目の前が真っ暗になるも、懸命にリハビリに励み、
徐々に仕事に復帰されるのですが、やはり、仕事は激減。

しかし、そんな苦しい状況の中、
同年秋、萩本欽一さんのバラエティ番組、
「欽ちゃんのドコまでやるの」にゲスト出演され、

(久々のテレビ出演だったため)
いやぁテレビっていいですねぇー

と、萩本さんに言うと、萩本さんは、

じゃあ来週もおいで

と、言ってくれたそうで、
以降、レギュラー出演することに。

「欽ちゃんのドコまでやるの」より。細川さんと萩本さん。

そして、その後、細川さんは、
レコーディングを終えたばかりだった新曲「北酒場」が、
明るくテンポがあってお客さんが喜びそうだから、ということで、
「欽ドコまでやるの」内でを歌うことになるのですが、

カンペが暗くて見えず、歌詞が分からなくなってしまうと、
逆に、それがお客さんに大ウケしたそうで、

(レコーディング直後で、まだ歌詞を覚えていなかったことから、
 リハーサルでは、大きなカンニングペーパーをカメラの横におき、
 うまくいっていたそうですが、本番では周りが暗くて、
 全く文字が読めなかったそうです)

以降、それを活かして、ロック調や民謡調で歌ったり、
振り付けを加えて番組内で大いに遊び、大人気となったのでした。

ちなみに、細川さんが欽ちゃんの番組に初めて出演された後、
なぜ、「来週もおいで」と言ってくれたのか萩本さんに聞いたところ、

あの時のたかし君の言葉はものすごく新鮮だった

と答えたられたそうですが、
細川さんはまったく覚えていないそうです。

「北酒場」が大ヒット~レコード大賞3冠

そして、1982年3月、この「北酒場」を、
18枚目のシングルとしてリリースすると、
100万枚を売り上げる大ヒットを記録し、

「北酒場」

同年、「第24回日本レコード大賞」を受賞されるなど、
「心のこり」以来、7年ぶりにスターの座に返り咲くと、

「第24回日本レコード大賞」受賞時の細川さん。
左は作曲された中村泰士さん、右は萩本欽一さん。

翌年の1983年にも、2月にリリースした「矢切の渡し」が大ヒットし、
(1976年に発売されたちあきなおみさんのカバー曲)
史上初の「第25回日本レコード大賞」2年連続受賞。

「矢切の渡し」

さらに、1984年には、
8月にリリースした「浪花節だよ人生は」が大ヒットし、
「第26回日本レコード大賞」「最優秀歌唱賞」の受賞と、

「浪花節だよ人生は」

男性演歌歌手としては、
初のレコード大賞三冠を達成されたのでした。
(大賞、最優秀新人賞、最優秀歌唱賞)

ちなみに、細川さんは、「第35回NHK紅白歌合戦」で、
「浪花節だよ人生は」を歌唱された際、

歌い出しを「肩を抱かれて・・・」と、
間違えて歌ってしまうのですが、(正しくは「飲めと言われて・・・」

歌唱中に、

あれっ、すいません、歌詞間違てごめんなさい。

と、笑顔で謝罪すると、

会場がどっと明るくなったため、
立ち直り、最後まで全部歌うことができたそうです。

(歌詞を間違えたのは、同番組史上、細川さんが初めてだったそうです♪)

コマーシャルソング、アニメ、ポップス、民謡も

また、その後も、細川さんは、

1985年8月「望郷じょんから」
1988年2月「北緯五十度」
1991年5月「応援歌、いきます」
     12月「佐渡の恋唄」
1993年9月「恋の酒」

など、順調にヒットを飛ばし続けるのですが、

1990年代に入ると、歌番組が減少し、
演歌を歌える場所が減ってしまったことから、

コマーシャルソング、アニメ、ポップス、民謡など、
ジャンルを問わず幅広く歌唱されており、

コマーシャルソング、アニメ、ポップス、
民謡など本当にいろんな唄をやってきましたよねぇ。

どうして、こんな歌を唄わなくてはいけないんだろう、
と思ったりもしましたよね。
一番の原因は演歌歌手の唄える場所が減ったことかなあ。

ここんところ歌番組が全くないからねぇ。
一つのテレビ局に、一つぐらいあってもいいのにねぇ。
一年に一回くらいしか、行かないテレビ局もあるくらいです。

と、嘆いておられました。

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紅白歌合戦を卒業

それでも、細川さんは、演歌歌手として、
地道な活動を続けておられたのですが、

2016年、この年出場すれば40回という節目だった、
「第67回紅白歌合戦」の出場を、

昨年、森進一先輩が番組を卒業されて、今年は私かなと。
紅白の舞台に立つことは、歌手として1つのステータスで、最大の夢。

でも、枠は限られているし、世代交代も必要です。
「のど自慢」「うたコン」など、NHKの番組には、今後もぜひ、
協力させていただきたいのですが、紅白は卒業させていただきます。

と辞退し、同番組から卒業することを表明。

ただ、同時に、

最低でもあと10年。
できれば80歳まで続けたい。

何十年も続く「のど自慢」で全国を回って歌いたいし、
永遠に声が出る限り歌いますから、ファンの皆さんはご安心ください。

と、まだまだ、演歌歌手としては、
精力的に活動を続けていくことを約束されたのでした。

「細川たかしはキティラー?RGと?変な髪型はかつら?結婚は?息子は?」に続く

↓↓↓歌詞を間違えた「第35回NHK紅白歌合戦」♪↓↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=F7QzUEUScYw

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