1974年、ファーストシングル「めざめ」でアイドル歌手デビューし、その後、立て続けにシングルをリリースするも、なかなかヒットとはならなかった、木之内みどり(きのうち みどり)さん。しかし、1977年、映画「野球狂の詩」でヒロインに抜擢されると、女優として注目を集めます。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

木之内さんは、1957年6月10日生まれ、
北海道小樽市のご出身、

身長163センチ、
体重42キロ、
スリーサイズは、78-57-84、
(1976年当時の公称サイズ)

血液型はA型、

学歴は、
小樽市立朝里中学校(バレーボール部に所属)
⇒明治大学附属中野高等学校卒業

ちなみに、「木之内みどり」は本名で、9人兄妹の末っ子だそうです。

「めざめ」でアイドル歌手デビューもパッとせず

木之内さんは、1972年、中学3年生(15歳)の時、日本テレビの「サンデーヒットパレード」内の水着審査で選ばれる「ミス・ティーン・コンテスト」に応募されるのですが、残念ながら準優勝だったため、芸能界入りは叶いませんでした。

それでも、あきらめきれず、1973年8月、16歳の時に、地元・小樽市から上京されると、歌謡番組「プラチナゴールデンショー」郷ひろみさんが司会)のマスコットガールで芸能界デビュー。

1974年5月には、フォトジェニック系アイドル専門レーベル「NAV(Nippin Audio Video)」から、ファーストシングル「めざめ」でアイドル歌手デビューし、


「めざめ」より。

その後も、

1974年9月「あした悪魔になあれ」
1975年1月「ほほ染めて」
     7月「おやすみなさい」
1976年2月「学生通り」
     7月「グッドフィーリング」
     11月「東京メルヘン」
1977年4月「ジュ・テーム」
     8月「イマージュ」
     10月「走れ風のように」

と、立て続けにシングルをリリースするのですが・・・売上はパッとしなかったのでした。

「浅井企画」に移籍

ただ、その一方で、雑誌「GORO」などで、グラビアモデルとしても活動すると、そのキュートな笑顔で高い人気を誇り、

(元祖・グラビアアイドルのような存在だったそうです)

そんな中、いつ頃かは不明ですが、芸能事務所「浅井企画」の川岸咨鴻(かわぎし ことひろ)さん(現・浅井企画専務)が、木之内さんに一目惚れされ、

ちょうど同じ頃、木之内さんも、当時の事務所と反りが合わないと感じられていたようで、テレビ局を介して円満に「浅井企画」に移籍されたのでした。

ちなみに、当時の「浅井企画」では、「コント55号」萩本欽一さん&坂上二郎さん)がメインで活躍しており、女性タレントはおらず、ましてやアイドルを売り出すのは異例のことだったそうですが、

それでも、花が一輪あっていいんじゃないかってね。みどりはことさら前に出るタイプじゃなかったから、いろんなスタッフに愛されていったよ。

と、川岸さんは語っておられました。

「野球狂の詩」のヒロインに抜擢

こうして、木之内さんは、歌手としてはなかなか芽が出なかったものの、雑誌でのグラビア人気はダントツで、当時のトップアイドルだった、山口百恵さんや桜田淳子さんを上回る人気ぶりを見せつけます。

また、木之内さんは、ファンのみならず、芸能界の大御所たちにもかわいがられていたそうで、1976年には、「私も燃えている」でテレビドラマデビューを果たすと、脚本家の倉本聰さんには、直々に指名され、同年、人気ドラマ「前略おふくろ様2」にも出演。


「前略おふくろ様2」より。木之内さんと萩原健一さん。

その後も、

1977年「B円を阻止せよ!〜もう一つの占領秘話」
1977年「悪妻行進曲」
     「すぐやる一家青春記」
     「ソーラン」
     「刑事犬カール」
     「まひる野」


「刑事犬カール」より。

と、立て続けにテレビドラマに出演されると、今度は、同名の人気コミックを原作とする、映画「野球狂の詩」で、原作者の水島新司さんたっての願いで、ヒロインの水原勇気役を務められたのでした。


「野球狂の詩」より。


新装版 野球狂の詩 水原勇気編(1) (講談社漫画文庫)

(表向きには、木之内さん自らオーディションに応募し、原作者の水島さん、野球評論家の豊田泰光さんほか5名が審査員を務める中、応募者2526人の中から選ばれたことになっています)

「刑事犬カール」で見せた芯の強い性格

ところで、「浅井企画」で、木之内さんのマネージャーを務められた川岸さんによると、木之内さんは、1977年、自身が主演を務めたテレビドラマ「刑事犬カール」の収録中、

私、こんな失礼な現場では仕事できません!

と、叫び、立ち去ったことがあったそうです。

川岸さんは、その光景が現在も忘れられないそうで、

共演者の稲葉義男さんに対する助監督の態度があまりにもひどかった。黒澤明の「七人の侍」にも出演している名優に対しての無礼が、みどりは許せなかったんですね。

その日の撮影を切り上げて帰ってしまいましたよ。

と、木之内さんのまっすぐで、驚くほどの芯の強さを語っておられます。

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「横浜いれぶん」で初のヒット

さて、最初はなかなか売れなかったレコードも、1978年2月リリースの、11枚目のシングル「横浜いれぶん」では、自身初の最高28位にランクインするヒットを記録。


「横浜いれぶん」より。

それでも、トップテンには届かず、当時の音楽番組「ザ・ベストテン」にはランクインできず、「夜のヒットスタジオ」にも出場は果たせなかったのですが、長期間30位以内をキープするロングヒットとなっています。

ちなみに、この「横浜いれぶん」は、女優業やグラビアでは順調だったものの、なかなかレコードが売れなかった木之内さんのために、マネージャーの川岸さんが、かつて、沢田研二さんらを手掛けたこともある大輪茂男さんをディレクターに招いて制作されたそうで、

大輪さんは、それまでの「はかなげなアイドル」からの脱却をはかるべく、フランスの歌手、ジェーン・バーキンのロリータ版を意識して、ジャケットの「白いブラウスに視線を落とした表情」を制作され、


ジェーン・バーキン

たとえば暴走族に囲まれたとして、無抵抗で連れ去られるのではなく、バイクの後ろに乗れよと声をかけられるようなヒロイン。これまでの静かに応援するファンもいいけど、落ちこぼれた連中から声援を受けるような歌にしたかった。

と、ロック色の強い楽曲に仕上げられたのでした。

「木之内みどりの前夫は後藤次利!駆け落ちし謝罪&引退会見していた!」に続く

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