1969年、和田アキ子さんとのトークラジオ番組「ワゴンでデート」のメイン司会者に抜擢された、せんだみつおさんは、その後も、仕事場で人とのつながりを大切にしたそうで、1973年には、鈴木ヒロミツさんのプロデュースで「ダメな男のロック」で歌手デビューもしたといいます。

「せんだみつおは若い頃「ワゴンでデート」の司会者に抜擢されていた!」からの続き

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鈴木ヒロミツのプロデュースで「ダメな男のロック」で歌手デビュー

和田アキ子さんと共に「ワゴンでデート」の司会に抜擢されるも、「ワゴンでデート」は評判が悪く、すぐに終了したそうですが、

それでも、ラジオの仕事はどんどん来たそうで、「ミッドナイトムーブメント」「ラジオカウント」「セイ!ヤング」「ハローパーティー」など、数多くのラジオ番組の司会を務めると、

「ミッドナイトムーブメント」
では、せんださんは月曜日のDJを担当していたそうですが、ほかの曜日のDJを務めていた、ロックバンド「ザ・モップス」のリード・ヴォーカルの鈴木ヒロミツさんと仲が良かったことから、1973年には、鈴木さんのプロデュースにより、「ダメな男のロック」という曲で歌手デビューもしたのだそうです。

(鈴木さんが初めてプロデュースしたのがせんださんだったそうです)


「ダメな男のロック」

「ダメな男のロック」は鳴かず飛ばずも充実した日々を過ごしていた

ただ、この「ダメな男のロック」、(10万枚売ると気合が入っていたそうですが)結局は6000枚しか売れず、本当に「ダメな男のロック」になってしまったそうですが、

せんださんは、この頃の充実ぶりを、著書「ナハ」で、

ただバカ騒ぎしてるだけでお金もらえるんで楽しくて仕方なかったよね。運も良かったんだろうけど。勢いがあったんだよね。よく「調子に乗るな」って言われるけど、あれうそね。調子は乗った方がいいの。

調子に乗ってる時にやっちゃったほうがいいでしょ。いまでもそう思ってるよ。サイン頼まれると、私よく「いまがスタート、いまがゴール」って書くの。私の場合、数十年前にゴールしたっきりなんだけど。でも気持ちはいつもいまがスタートでゴール。

と、綴っています。

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黒澤久雄とは「クロパン」と呼ぶほど親しかった

ところで、せんださんは、その頃、黒澤明監督の息子である黒澤久雄さんと、久雄さんのコンサートの司会を担当したことがきっかけで知り合うと、久雄さんを「クロパン」と呼ぶほど親しくなったそうで、

(久雄さんは、音楽をやったり、ラジオのDJなどもしていたそうです)

そのつながりで、黒澤監督が、映画「どですかでん」(1970)の公開にあたり、銀座でサイン会を開催した際には、せんださんがメガホンを持って呼び込みをしたそうですが、

(黒澤監督は、1967年、日米共同スタッフ・キャストによる真珠湾攻撃を題材にした映画「トラ・トラ・トラ!」で、日本側の監督を担当するも、演出を巡ってキャストとトラブルになり、スケジュールが大幅に遅れてクビになっていたことから、再起をかけ、自宅を担保にしてまで製作した次作が「どですかでん」だったそうで、どうしてもヒットさせなければならないと、切羽詰まった状況だったそうです)

せんださんは、著書「ナハ」で、

クロパンの家に行った時、黒澤監督が一回だけ「いらっしゃい」って言ってくれたのもよく覚えている。それが最初で最後の会話でしたね。

私はもちろん映画には全然使ってもらえなかったけど、非常に物静かで、やっぱり威圧感のある、すごい人でしたよ。

と、黒澤監督について語っています。

「せんだみつおは落語家の林家三平を尊敬していた!」に続く


ナハ

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