1973年、24歳の時、「劇団四季」の「イエス・キリスト=スーパースター」のヘロデ役で舞台デビューすると、その後、「オペラ座の怪人」での怪人役が絶賛され、「劇団四季」退団後は「ミス・サイゴン」で、長年、主演を務めた、市村正親(いちむら まさちか)さん。
そんな市村正親さんは、幼い頃から人を喜ばすことが好きだったそうで、高校時代に演劇と出会い、その魅力に引き込まれると、高校卒業後は、「舞台芸術学院」で本格的に演技を学びながら、俳優の西村晃さんの付き人として現場での経験を積んだといいます。
今回は、市川正親さんの、幼少期(生い立ち)から西村晃さんの付き人時代までをご紹介します。

市村正親が幼い頃は人を喜ばせることが好きな子供だった
市村正親さんは、元エリート軍人だったお父さんと大衆食堂を経営するお母さんのもと、一人っ子として誕生すると、
1973年、24歳の時、劇団四季の「イエス・キリスト=スーパースター」(後の「ジーザス・クライスト=スーパースター」)のヘロデ役で舞台デビューして以来、70歳を回った現在も、現役で俳優活動を続けている、市村正親(いちむら …
あの真田幸村の父・真田安房守昌幸と戦ったこともあったという市村与左衛門という人物の分家で、後に農家に転身した先祖を持つ、市村正親(いちむら まさちか)さんですが、今回は、市村さんのお父さんについてご紹介します。 「市村正 …
幼い頃は、祭りの音に合わせて踊ることが好きで、お母さんの居酒屋でお客さんを喜ばせることが好きな子供だったそうです。
今回も、市村正親(いちむら まさちか)さんの父親・信行さんのお話から。旧満州で、国境警備の任期終了後、軍隊に残らず、北京で「華北交通株式会社」に入社すると、反日感情の激しい沿線の住民に鉄道敷設を受け入れさせるという任務に …
市村正親は小学校時代に俳優に憧れるようになっていた
そんな市村正親さんは、小学生になると、学校が終わった後、毎日、映画館へ通い、俳優という仕事に憧れを抱き始めたといいます。
新聞社を立ち上げ、たった一人で新聞を発行していたお父さんと、そんなお父さんを支えようと、大衆居酒屋を経営するお母さんのもと、一人っ子として誕生した、市村正親(いちむら まさちか)さんは、幼い頃から人を喜ばせることが好きだ …
ちなみに、同時期には、お父さんの市村信行さんが、埼玉県議会選挙に出馬し、その後、川越市議会選挙にも2度出馬したそうで、
お母さんはそんな夫を全面的に支え、選挙資金を工面したりウグイス嬢を務めたりと活動をサポートしたそうですが、結果はいずれも落選だったそうです。
市村正親は高校2年生の時に体操部でバック宙に失敗し首を負傷して3ヶ月間入院していた
さておき、市村正親さんは、小学生の時には俳優に憧れていたものの、中学進学後は柔道部に入部し、高校進学後は体操部に入部したそうで、高校時代は、逆立ちやバック宙に熱中したそうですが、
高校2年生の時、バック宙に失敗して首を負傷し、3ヶ月の入院を余儀なくされてしまったそうで、それ以来、体操への情熱は失ってしまったそうです。
市村正親は高校2年生の時に演劇のおもしろさに目覚めていた
そんな中、演劇部の顧問の先生から声をかけられ、それをきっかけに演劇部に入部すると、お芝居の面白さに目覚め、部活動だけでは物足りなくなったそうで、
東京都北区の「新日本児童」という学校にも通い始めたそうです。
市村正親は高校3年生の時に俳優になる決意をしていた
そんな市村正親さんは、その後、エキストラとして、信州・松本での日活映画のロケに参加した際、水の江瀧子さんや石原裕次郎さんなどのスターと接して、大きな刺激を受け、
さらには、高校の体育館に来た「劇団新制作座」の公演を観て、
主宰の真山美保さんの、
悲惨な状況をつくらないためにも演劇は大事だ
という言葉に深く感銘を受け、演劇への思いを一層強くしたそうで、
高校卒業間近には、「劇団民芸」の舞台「オットーと呼ばれる日本人」で、主演・滝沢修さんの迫真の演技を観て、俳優になることを決意したのだそうです。
もともと体を動かすことが好きで、中学では柔道部、高校では体操部に入部するも、高校2年生の時、バック宙に失敗して長期入院し、体操への情熱が冷めてきた時、「3年生を送る会」の手伝いを頼まれ、出し物のお芝居に参加したことで、演 …
市村正親は高校卒業後は「舞台芸術学院」で演劇を基礎から学んでいた
こうして、市村正親さんは、高校卒業後、演劇の世界に飛び込むべく、著名人の自宅を直接訪ねては、弟子入りを志願したそうですが、断られ続けたそうで、
そんな中、歌舞伎俳優・八代目市川中車さんとの出会いで、
俳優になるには基礎を学ぶ必要がある
と気づき、演劇をきちんと学ぶことに決めると、
高校の演劇部の恩師が習っていたという「舞台芸術学院」を思い出し、「舞台芸術学院」に入学したそうで、3年間、1日も休まず学び続けたのだそうです。
(実は、真っ先に「俳優座」を思いついたそうですが、自分には不釣り合いだと感じ、あきらめたのだそうです)
市村正親は20歳頃に西村晃の付き人をしていた
また、「舞台芸術学院」在学中には、俳優の西村晃さんが付き人のアルバイトを募集していたことから、応募すると採用されたそうで、
「舞台芸術学院」卒業後、そのまま、西村晃さんに正式に弟子入りすると、プロの現場で多くを学んだほか、舞台上の失敗に寛容な西村さんからは、役者としての在り方や人間性についても学んだのだそうです。
そして、24歳の時、「自分を第一に考えたい」と独立を決意すると、西村晃夫妻の温かい理解のもと、付き人を卒業したのだそうです。
高校卒業間近に観た劇団「民芸」の戯曲「オットーと呼ばれる日本人」で、主演の滝沢修さんの演技に感銘を受け、本格的に役者になることを決意したという、市村正親(いちむら まさちか)さんは、高校卒業後は、「舞台芸術学院」に入学し …
「【画像】市村正親の若い頃は「オペラ座の怪人」「ミス・サイゴン」でブレイク!」に続く
![]()
「劇団四季」時代は「オペラ座の怪人」のファントム役、「劇団四季」退団後は「ミス・サイゴン」のエンジニア役が当たり役となると、 その後も、「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ラ・カージュ・オ・フォール」「モーツァルト!」など数 …














