大学卒業後、日本テレビに入社すると、プロレス中継を経て、1979年、朝の情報番組「ズームイン!!朝!」の総合司会に抜擢され、1989年以降は、フリーで、情報番組やバラエティ番組で司会者として活躍するほか、タレントとしても活躍している、徳光和夫(とくみつ かずお)さん。

今回は、そんな徳光和夫さんの、若い頃(日本テレビ時代)の経歴を時系列でご紹介します。

徳光和夫

「徳光和夫の生い立ちは?幼少期から話好き!高校時代は落語家を目指していた!」からの続き

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徳光和夫は大学卒業後は日本テレビに入社していた

長嶋茂雄さんを追いかけて、立教大学に進学し、長嶋茂雄さんのプレーを見るために、応援団に入るも、神宮球場のスタンド最前列で取材をしていた放送研究会を見かけ、放送研究会に転部したという徳光和夫さんは、特にアナウンサーになりたいと思っていたわけではなかったそうですが、

進路を考え始めた大学4年生の時、同期の土居まさるさんに、背中を押される形でアナウンサーになろうと思い、1963年、「日本テレビ」の入社試験を受けると、見事、合格したそうです。

徳光和夫は日本テレビ入社後は野球の実況中継の練習を繰り返し行っていた

そして、「日本テレビ」では、入社1年目の研修期間中、アナウンス部の上司・越智正典さんに野球の実況を担当したいと自ら願い出ると、早速、念願の野球中継にサブアナとして起用されたそうで、

(越智正典さんのはからいで、憧れの長嶋茂雄さんとも初めて会うことができたそうです)

越智正典さんに野球の実況中継のやり方を教えてもらい、毎朝、通勤電車の中で、野球の実況の練習を繰り返し行ったのだそうです。

徳光和夫は日本テレビ入社後の最初の仕事は歌謡番組の司会だった

そんな徳光和夫さんは、このままトントン拍子で野球の実況中継を任されると思っていたそうですが・・・

初めて任された仕事は歌謡番組の司会だったといいます。

実は、徳光和夫さんは、労働組合の活動に熱心に取り組んでいたそうで、後に、アナウンサーは労働組合に入ると出世できないということを知り、

野球や相撲など、王道スポーツの実況中継のアナウンサーから外されてしまったことに気がついたのだそうです。

徳光和夫は日本テレビ入社2年目にはプロレスの実況中継に回されていた

こうして、徳光和夫さんは、歌謡番組の司会をすることになったそうですが、いつ野球中継の実況が回ってきてもいいようにと、いつも準備万端にしていたそうですが・・・

そんな努力も虚しく、入社2年目に回ってきた仕事は、プロレスの実況中継だったといいます。

実は、この頃、プロレスは、八百長が取り沙汰されており、徳光和夫さん自身もプロレスに偏見があったそうで、嫌で嫌でたまらなかったといいます。

徳光和夫は22歳の時ジャイアント馬場が入場シーンでトップロープをまたぐ姿を見て衝撃を受けていた

そんな徳光和夫さんは、やがて、アナウンサーを辞めることを真剣に考えるようになったそうですが、

そんな中、1963年3月22日、「リキパレス」で開催された「第5回ワールドリーグ戦前夜祭」の取材に出かけた際、

ジャイアント馬場さんが入場シーンで、トップロープをまたぐ姿を見て衝撃を受けたといいます。

(徳光和夫さんはこの時初めてジャイアント馬場さんを見たそうです)

徳光和夫はジャイアント馬場の人間的な魅力により嫌いだったプロレス中継を続けられていた

そして、その後、ジャイアント馬場さんと交流するようになると、人間味あふれるジャイアント馬場さんと交流する中、プロレス中継の仕事に踏みとどまったそうで、

やがては、嫌で嫌でたまらなかったプロレスがだんだん好きになり、プロレス中継にも情熱を注げるようになったのだそうです。

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徳光和夫は38歳の時に「ズームイン!!朝!」、47歳の時に「NNNニュースプラス1」の司会に抜擢されるも日本テレビを退社していた

そんな徳光和夫さんは、プロレス中継のかたわら、1969年10月、「NTV紅白歌のベストテン」で総合司会に抜擢されると、以降、次々とクイズ番組などの司会に起用され、

1979年3月、38歳の時には、朝の情報番組「ズームイン!!朝!」の司会に抜擢されています。

徳光和夫
1979年、「ズームイン!!朝!」より。

そして、その後、1988年4月、47歳の時には、ニュース番組「NNNニュースプラス1」の初代キャスターに抜擢されているのですが・・・

徳光和夫
「NNNニュースプラス1」より。

翌年の1989年、日本テレビを退社しています。

お読みいただきありがとうございました

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