1965年5月、30歳の時、「ザ・スパイダース」として、1stシングル「フリフリ」でレコードデビューすると、1966年9月にリリースした7thシングル「夕陽が泣いている」が売上120万枚を超える大ヒットとなり、その後も、「なんとなくなんとなく」などヒットを連発しブレイクした、加藤充(かとう みつる)さん。

今回は、そんな加藤充さんの若い頃(「ザ・スパイダース」のベーシスト時代)の経歴を時系列でご紹介します。

加藤充

「加藤充の生い立ちは?中学時代は讃美歌!高校では大学のカントリーバンド!」からの続き

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加藤充は28歳の時、田邊昭知にスカウトされ「ザ・スパイダース」に加入

1962年、28歳の時、「ゲーリー石黒&サンズ・オブ・ウェスト」を解散し、実家の寿司屋で修行を始めたという加藤充さんですが、

そんな中、田邊昭知さん(現・田辺エージェンシー会長)から電話があり、

大野克夫さんもいるから)来い

と、「ザ・スパイダース」に誘われたといいます。

(ベースに欠員が出たそうです)

ただ、加藤充さんが、すでに寿司職人の修行を始めているからと断ると、

田邊昭知さんは、

2年間だけでいいから来てくれ

と、頼んできたそうで、

それならばと、加藤充さんは、2年間だけという条件付きで、この誘いを承諾したのだそうです。

ちなみに、加藤充さんは、この時のことを、

親に頭を下げて2年間だけやらせてくれと言いました。本当はやりたくてしょうがなかったんですが(笑)。

でも、自信がなかったですね、東京でやるには。

と、語っています。

(加藤充さんは、田邊昭知さんとは過去に共演したことがあり、面識があったそうですが、一足先に、田邊昭知さんに引き抜かれて「ザ・スパイダース」に加入していた大野克夫さんが、「ベースの加藤充と2人一緒なら」と条件を出し、「ザ・スパイダース」に加入していたという話もあるようです)

加藤充が28歳の頃、「ザ・スパイダース」はジャズや歌謡曲を演奏していた

その後、加藤充さんが、コントラバスを持って夜行列車に乗り、東京に行くと、東京駅には、スタッフの人が迎えに来てくれていたそうで、その足で、川崎にあるジャズ喫茶「フロリダ」に連れて行かれ、「ザ・スパイダース」の演奏を見せてもらったそうですが、

アート・ブレイキー風のジャズだったそうで、加藤充さんは、ジャズはほとんどやったことがなかったことから、当初は、とても苦労したそうです。

(その頃の「ザ・スパイダース」は、「高木たかしとスパイダース」「斉藤チヤ子とスパイダース」「かまやつひろしとスパイダース」など、歌謡曲を歌う歌手のバックバンドをやりつつ、ゲストシンガーがいない日にはジャズを演奏していたそうですが、全く売れなかったそうです)

ちなみに、加藤充さんは、その頃のことを、

銀座に「美松」と言うでっかいジャズ喫茶があって、そこで田邊(昭知)さんとジャズやっていたら、いきなりドラムの音が違うんですよ、変だなと見たら、(当時人気実力共にナンバーワンだった)白木秀雄さんだったんですよ。

まいったなあ・・・って(笑)もう弾いてられませんでしたよ、かっこ悪くて。(途中で白木秀雄さんが来店し、田邊昭知さんと交代していたそうです)

と、語っています。

加藤充が29歳の頃、「ザ・スパイダース」は「ビートルズ」のような音楽に方向転換していた

それでも、「ザ・スパイダース」は、地道にジャズ喫茶での演奏でキャリアを積み、1962年頃には、徐々に、ゲストボーカルを入れず、「ザ・スパイダース」独自で演奏するようになっていくと、

1963年頃には、メンバーのかまやつひろしさんが影響を受けていた「ビートルズ」(この頃はまだ日本では一般に知られていなかったそうです)のような「リバプールサウンド」「マージービート」「ブリティッシュ・ビート」と呼ばれる音楽に方向転換していったそうです。

加藤充が32歳の頃、「ザ・スパイダース」はビートルズの前座を断っていた

そして、1964年頃からは、来日した海外アーティストのバックバンドや前座を務めるようになったそうですが、1966年、「ビートルズ」来日時の前座の依頼は断ったそうで、

加藤充さんは、

前座をやってくれと言う話もありました。けど、かまやつ(ひろし)さんとか「神様の前ではいやだ」と。

昔、ベンチャーズで失敗してるんですよ、前座で出たら(観客が)「へたくそー、やめろー」といじめられましたから。みかんは飛んで来るやら・・・情けなくて下向いてやってました。ましてやビートルズですからね。

と、語っています。

加藤充は31歳の時に「ザ・スパイダース」として1stシングル「フリフリ」でレコードデビューするも人気はパッとしなかった

そんな中、「ザ・スパイダース」は、1965年5月10日には、ファーストシングル「フリフリ」でレコードデビューを果たしたそうですが・・・

人気はパッとしなかったそうです。

「ザ・スパイダース」
「フリフリ」

それでも、その後も、

  • 1965年11月15日「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」
    「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」
    「越天楽ゴーゴー」
  • 1966年2月1日「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」
    「ノー・ノー・ボーイ」
    「ノー・ノー・ボーイ」
  • 1966年3月10日「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」
    「青春ア・ゴー・ゴー」
    「青春ア・ゴー・ゴー」
  • 1966年4月15日「ヘイ・ボーイ/ミシェル」
    「ヘイ・ボーイ」
    「ヘイ・ボーイ」
  • 1966年7月1日「サマー・ガール/なればいい」
    「サマー・ガール/なればいい」
    「サマー・ガール/なればいい」

と、立て続けにシングルをリリースすると、

一部の洋楽ファンからは、その斬新な音楽性とミリタリールックを取り入れたファッションなどが人気を集めたそうですが、大ヒットとはならなかったそうです。

加藤充は32歳の時「ザ・スパイダース」として「夕陽が泣いている」が売上120万枚を超える大ヒットを記録

しかし、1966年9月15日、7枚目のシングル「夕陽が泣いている」をリリースすると、たちまち、売上120万枚を超える大ヒットを記録。

このヒットにより、「ザ・スパイダース」は、一躍、スターダムに駆け上ったのでした。

「夕陽が泣いている」
「夕陽が泣いている」

ちなみに、加藤充さんは、

(海外ツアーから帰国し)羽田に着くと飛行機の窓から、もの凄い数の女の子たちが、手を振りながら何か叫んでいるのが見えたので、てっきり外国から映画スターでも来日したのかと思いました。

そしたら、なんと僕たちを出迎えに来たファンたちだったんです。ツアー中に、日本のスタッフからの電話で、「夕陽が泣いている」が売れているとは聞かされていたけど、まさかこれほどの騒ぎになっているとは、夢にも思っていなかったんで驚きましたよ。

その日から僕たちの生活は一変しました。何処へ行っても追っかけファンたちが待ち構えていて、凄い騒ぎになってしまってね。

と、語っているのですが、

当初、メンバーたちは、「夕陽が泣いている」が歌謡曲のような曲調で、自分たちが志向する「ブリティッシュ・ビート」の香りが全くしなかったことから、難色を示していたといいます。

ただ、加藤充さんは、それほどでもなかったそうで、

まあ、流れ作業的にやってました。いつものことだと。大ヒットするなどとは思わなかったですね。

と、語っています。

(この「夕陽が泣いている」は、「堀プロダクション」の社長・堀威夫さんが、「ザ・スパイダース」を売り出すため、著名なヒットメーカーの浜口庫之助さんに楽曲の制作を依頼してできたものだったそうで、断るわけにいかず、それでもなんとか、「ザ・スパイダース」らしいロック風なアレンジにして完成させたそうで、ギターの井上堯之さんは、とても苦労してイントロを考え出したといいます)

加藤充は「ザ・スパイダース」の人気絶頂期に辞めさせられそうになっていた

すると、その後も、「ザ・スパイダース」は、

  • 1966年12月25日「なんとなくなんとなく」
    「なんとなくなんとなく」
    「なんとなくなんとなく」
  • 1967年3月1日「太陽の翼」
    「太陽の翼」
    「太陽の翼」
  • 1967年7月15日「風が泣いている」
    「風が泣いている」
    「風が泣いている」

と、ヒットを連発したのですが、

そんな中、加藤充さんは、田邊昭知さんに、

(バンドがもっと売れるには、年寄は邪魔だと)カッペ(加藤さんの愛称)、そろそろマネージャーでもやるか?

と、言われそうで、

いいよ

と、了承したといいます。

(寂しい気持ちにはなったものの、年を考えると仕方がないと思ったそうです)

そして、その後、元「ジ・エドワーズ」のボーカル・大石悟郎さんが加藤充さんの後釜として呼ばれたそうですが・・・

大石悟郎さんは、1週間くらいで、理由も言わずにいなくなってしまい(おそらく、ベースが弾けなくて辞めた)、結局、加藤充さんはそのまま残ることになったそうで、

加藤充さんは、

ベースも教えようがないんですよね。譜面書いて教えるというのも出来なくて・・・何も(理由を)聞かないうちにいなくなってしまいました。

ただ、やはり覚える時は体で覚えないと。譜面を前にしてどうのこうのというよりステージで覚えるという、そう言った前向きな姿勢がないと難しいかもしれませんね。彼がやっていたら良い男だから人気出たかもしれないですけどね(笑)

と、語っています。

(大石悟郎さんは、その後、俳優に転身しています)

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加藤充が36歳の時に「ザ・スパイダース」は解散

こうして、「ザ・スパイダース」脱退から免れたという加藤充さんですが、1967年には、ライバルグループの「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」が「ブルー・シャトウ」でレコードセールス150万枚となる大ヒットを記録すると、

同年夏には、10代~20代前半の若手グループである、「ザ・タイガース」「ザ・カーナビーツ」「ザ・ジャガーズ」などが次々と台頭してきて、グループサウンズブームが巻き起こったそうで、

比較的、年齢層の高いグループだった「ザ・スパイダース」は徐々に人気に陰りが見え始めたといいます。

そして、1969年の夏頃になると、観客数の落ち込みが著しくなったそうで、個々のメンバーの人気が高かったことから、収益面などを理由にソロ活動が優先されるようになっていくと、

1970年9月には、シングル「エレクトリックおばあちゃん」をリリースするも、ヒットとは程遠く、

同年11月にかまやつひろしさんが脱退すると、これが引き金となり、1971年1月、「ザ・スパイダーズ」は、「第43回日劇ウエスタンカーニバル」の出演を最後に、解散したのでした。

「エレクトリックおばあちゃん」
「エレクトリックおばあちゃん」

ちなみに、加藤充さんは、「ザ・スパイダース」が解散した時の状況について、

(「ザ・スパイダース」は正式に解散したのかという質問に対し)そうですね。昭ちゃん(田邊昭知さん)からメンバーに集合命令がかかって、メンバーも年取ってきたし、もう仕事も少なくなってきたから解散しようという話がありました。

その時(井上)だけが猛反対しましたね、「絶対解散しないでくれ」って言ってました。

と、語っています。

「【画像】加藤充のスパイダース解散後から現在までの経歴は?保険会社勤務も!」に続く

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