1967年2月5日、20歳の時、「ザ・タイガース」のギタリストとして、「僕のマリー」でデビューすると、透き通るようなハイトーンボイスでファンを魅了し、
「ザ・タイガース」解散後は、ソロで、高い音楽性にこだわった芸術的なアルバムを次々と発表した、加橋かつみ(かはし かつみ)さん。
そんな加橋かつみさんは、小・中学校時代は、教会の聖歌隊として讃美歌を歌うも、この頃はまだ音楽に目覚めておらず、高校時代は、将来、グラフィックデザイナーになりたいと思っていたそうですが、
転校先の高校で瞳みのるさんと出会うと、瞳みのるさんを介して、岸部一徳さん、森本太郎さんとも知り合い、いつも麻雀をするなど一緒に遊んでいたといいます。
今回は、加橋かつみさんの生い立ち(幼少期から高校時代まで)を時系列でご紹介します。

加橋かつみのプロフィール
加橋かつみさんは、1948年2月4日生まれ、
大阪府堺市の出身(京都府育ち)
身長165センチ、
体重50キロ、
血液型はB型、
学歴は、
堺市立大仙小学校
⇒堺市立旭中学校
⇒大阪工業大学高等学校(現・常翔学園高等学校)
⇒京都府立山城高等学校転校⇒中退
ちなみに、本名は「高橋克己(たかはし かつみ)」で、愛称は「トッポ」だそうです。(トッポ・ジージョに似ていたことから)

「トッポ・ジージョ」
加橋かつみは幼少期、普段はおとなしいが一度怒り出すと手が付けられないほど激しい癇癪持ちだった
加橋かつみさんのお母さんは、師範学校を卒業した児童心理学の専門家で、新制高校の教師だったそうですが、
教え子たちを戦地へ送り出し、彼らの戦死の知らせを受け取るという、過酷な時代を教師として過ごしたことから、戦後は、日本の女性による平和運動や民主教育の推進に長年尽力したそうです。
そんなお母さんのもと、加橋かつみさんは誕生したそうですが(一人っ子)、幼い頃は、普段は物静かも、一度怒ると手が付けられないほどの激しい癇癪(かんしゃく)持ちだったそうで、
気がつくと、いじめっ子を見つけては、ケンカをする毎日だったそうです。
そんな中、お母さんは、加橋かつみさんには何も言わず、黙って菓子折りを持って、相手方に謝りに回っていたそうで、
加橋かつみさんが、
余計なことはやめてくれ、僕が悪いのじゃない
と、言うと、
お母さんは、いつも笑って、
分かってる、分かってる
と、言っていたそうですが、
大人になってから、加橋かつみさんが、お母さんに、
なぜあの時、僕を叱らなかったのか
と、尋ねると、
お母さんは、たった一言、
あなたのことを信じているから
と、答えたそうで、
加橋かつみさんは、お母さんが、仕事で忙しく、あまり家にいないながら、本質的な部分はちゃんと見ていてくれたのだと感じ、
永遠に忘れられない、母の一言でした。
と、自身のブログに綴っています。
(加橋かつみさんは、お母さんとは、大人になってからもずっと友達のように何でも話せる関係だったそうです)
加橋かつみは高校時代は将来グラフィックデザイナーになろうと考えていた
さておき、加橋かつみさんは、小・中学校時代は、教会の聖歌隊に入り、讃美歌を歌っていたそうですが、この頃はまだ、音楽を目指していたわけではなかったそうで、
高校時代は、叔父さんが大手広告代理店の役員をやっていたことから、そのつてで、代理店のグラフィック・デザイナーになれたら、と思い、高校卒業後は、美大に行こうと考えていたそうです。
加橋かつみは高校時代、瞳みのる、岸部一徳、森本太郎とは、遊び仲間であり、麻雀仲間であり、音楽仲間だった
そんな中、転校先の京都府立山城高等学校の食堂で、瞳みのるさんと知り合い、仲良くなると、
その後、瞳みのるさんを通じて、岸部修三(きしべおさみ=現・岸部一徳)さん、森本太郎さんとも仲良くなり、4人で、麻雀をしたり、京都四条河原町のダンスホール「田園」に入り浸るなど、いつも一緒に遊ぶようになったそうで、
瞳みのるさんは、加橋かつみさんの初対面の印象を、
最初から他の生徒と一風も二風も変わっていた。ベレー帽をかぶり、画学生や画家がアトリエで着る白っぽい上っ張り(ところどころ絵具の筆の跡のついた)を着て、スケッチブックを脇に抱え、いかにも自分は画家の卵であるといったいでたちであった。
かなりキザな生徒だと思ったのが第一印象であった。金にはあまり頓着せず、繊細な神経の持ち主で、緩慢な動作とは裏腹に鋭い感性の持ち主であるが、自分勝手な所もある。
かつみはいろんな意味で現実離れし、夢想的、観念的、クリエィティブな仕事の好きな男だった。
と、語っているのですが、
瞳みのるさんは、岸部修三さん、森本太郎さんとの遊び仲間に「ぜひ(個性的な)加橋かつみさんを加えたい」と思い、まずは、遊び仲間、ついでに麻雀仲間、その後、音楽仲間という順序で、仲間に迎え入れようと思ったそうで、
加橋かつみさんによると、瞳みのるさんたちの仲間に入ると、強引に麻雀を教え込まれ、最初はみんなからカモにされて、所持金を巻き上げられ、不自由な思いをさせられたといいます。
ただ、加橋かつみさんは、すぐに麻雀の魅力に取り憑かれ、母一人子一人で暮らし、お母さんが仕事で忙しく留守がちだった加橋かつみさんのアパートはみんなのたまり場になったそうで、毎日のように、寝食を忘れて徹夜で麻雀に明け暮れたのだそうです。
ちなみに、瞳みのるさんによると、麻雀の腕前は、岸部修三さんが頭一つ抜けており、加橋かつみさんは、時間をかけた割には上達しなかったそうで、
性格的に熱くなりやすく、あまり賭けごとには向いていなかったのだろう。
と、語っています。
(後に沢田研二さんがバンドメンバー兼遊び仲間に加わったそうですが、瞳みのるさんによると、既に麻雀のメンバーは飽和状態だったため、沢田研二さんには麻雀は教えなかったそうです)
「【画像】加橋かつみの若い頃(ファニーズ時代)は?田邊昭知や内田裕也からスカウトされていた!」に続く
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もともと、イラストレーター(美術関係)を目指していた中、瞳みのるさんらに強く誘われ、1965年、リードギターとしてインストゥルメンタルバンド「サリーとプレイボーイズ」を結成し、その後、沢田研二さんをボーカルに迎えて「ファ …







