もともと、イラストレーター(美術関係)を目指していた中、瞳みのるさんらに強く誘われ、1965年、リードギターとしてインストゥルメンタルバンド「サリーとプレイボーイズ」を結成し、その後、沢田研二さんをボーカルに迎えて「ファニーズ」と改名すると、京都や大阪のダンスホールで人気を博し、
1966年10月には、「ファニーズ」として「渡辺プロダクション」と正式に契約したという、加橋かつみ(かはし かつみ)さん。
今回は、そんな加橋かつみさんの、若い頃(「サリーとプレイボーイズ」時代~「ファニーズ」時代)をご紹介します。

「加橋かつみの生い立ちは?瞳みのる、岸部一徳、森本太郎とは高校から友達!」からの続き
加橋かつみは17歳の時、瞳みのる、岸部修三、森本太郎と「サリーとプレイボーイズ」を結成していた
加橋かつみさんは、高校時代、遊び仲間だった、瞳みのるさん、岸部修三(現・岸部一徳)さん、森本太郎さんに、一緒にバンドを組もうと誘われ、
当初は、
(音楽ではなく)本当はイラストレーターになりたい
と、抵抗していたそうですが、
瞳みのるさんに強引にバンドに入れられたそうで、1965年、17歳の時、瞳みのるさん、岸部修三さん、森本太郎さんの4人でバンド「サリーとプレイボーイズ」を結成したそうです。
とはいえ、4人とも楽器は素人だったことから、パートをじゃんけんで決めるなど、まったくのゼロからのスタートだったそうで、加橋かつみさんは、自ら志願して、リードギターを担当することになったそうです。

「サリーとプレイボーイズ」。(左から)森本太郎さん、瞳みのるさん、加橋かつみさん、岸部修三さん。
実は、加橋かつみさんは、1965年1月、大阪で開催された「ベンチャーズ」のコンサートを4人で観に行った際、「ベンチャーズ」の奏でるエレキギターに他の楽器にない魅力を感じていたそうで、
加橋かつみさんは、
なにしろ、初めて聴いたベンチャーズのギターの音色に驚いた。エレクトリックで楽器の音を増幅して出す、というのは、それまでにはなかった画期的なことなんです。
たとえば、2000~3000人どころか、何万人というお客さんの前でも、ジャーンと弾いたエレキギターの音は隅々まで響きわたる。会場全体が一瞬にして、一体感に包まれる感覚があるんです。
だから、僕はギターでなかったら、バンドをやろうとは考えなかったと思います。
と、語っています。
加橋かつみは17歳の時、「サリーとプレイボーイズ」として「ベンチャーズ」などのエレキインストナンバーを演奏していた
そして、週末、四条河原町のダンスホール「田園」で開かれるダンスパーティーのチケットを売っては、主に「ベンチャーズ」などのエレキインストナンバーを演奏し、アルバイト代わりにしたのだそうです。
(メンバー4人とも、「ベンチャーズ」に憧れていたことから、「サリーとプレイボーイズ」はボーカルのいないインストゥルメンタルバンドだったそうです)
加橋かつみは17歳の時、「サリーとプレイボーイズ」に沢田研二が加入し「ファニーズ」と改名していた
ただ、やがては、「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」などが流行り始めたことから、
これからは歌を歌わないといけない
と、専属ボーカルの必要性を感じるようになったそうですが、
バンドを始めたばかりで、どうしても演奏が下手だったことから、演奏しながら歌うということができず、かと言って、演奏ばかりではステージが持たなくなってきたことから、
四条河原町のダンスホール「田園」に出演していた「ザ・サンダース」のヴォーカル兼サポートメンバーで、歌がうまいと評判だった沢田研二さんを、岸部修三さんと森本太郎さんがリード・ヴォーカルにスカウトしたそうで、
翌年の1966年元旦には、沢田研さんが加入し、それと同時に、グループ名も「サリーとプレイボーイズ」から「ファニーズ」と改名したのだそうです。
ちなみに、加橋かつみさんは、
沢田が入って5人になったことで、「このグループは何をやっても他に勝てる」という勘のようなものが働いた。これは、他のメンバーも同じだったんじゃないかと思います。
と、語っています。
加橋かつみは17歳の時、「ファニーズ」としてジャズ喫茶「ナンバ一番」のオーディションを受けるも不合格だった
また、当時、加橋かつみさんたちにとっては、バンド活動はあくまで”遊び”の延長で、京都のジャズ喫茶で演奏したり、ダンスパーティを企画したりするなど、自分たちが鳴らしたい音を鳴らして、楽しむためのものだったそうですが、
沢田研二さんがバンドに加わり、歌がメロディに乗るようになったことで、いつしか、”プロ”を意識するようになったそうで、
まずは、大阪・難波にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディション合格を目標に据えて、ひたすら練習を重ね、
(「ナンバ一番」には、内田裕也さんが率いる「ブルージーンズ」のような、プロとして活躍するアーティストたちが集い、芸能プロダクションとも深く繋がっていたため、プロの世界に飛び込むためには、あそこで認められることが一番の近道だと、メンバーみんなが確信していたそうです)
1966年1月16日、岸部修三さん(一説には瞳みのるさん)が約束を取り付けてきた、オーディション本番では、「ビートルズ」の「I Saw Her Standing There」と「デイブ・クラーク・ファイブ」の「Do You Love Me」を演奏したそうですが・・・
残念ながら不合格だったそうです。
加橋かつみは17歳の時、「ファニーズ」として「ナンバ一番」の専属レギュラーになっていた
ただ、ある日のこと、森本太郎さんの自宅に、突然、
急遽、出演できなくなったバンドがいる。ナンバ一番の舞台に立ってくれないか
と、代役の依頼の電話があったそうで、
森本太郎さんが、電話を切った直後、
ナンバ一番に出られるぞ!
と、言うと、
加橋かつみさんたちメンバーは、全員、飛び上がって喜んだそうです。
すると、出演は、その日の一日だけで、その日は売れっ子バンドの前座としての出演だったそうですが、
その売れっ子バンドを目当てに来ていたファンの人たちが、思いがけず、「ファニーズ」に興味を持ってくれたそうで、
やがて、「ファニーズ」は、「ナンバ一番」と専属契約を結んでレギュラー出演するようになり、「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」などの楽曲を英語で披露すると、
一気にファンが増え、客席は常にいっぱいになったそうで、次第に「ナンバ一番」への出演が増えていき、6月には、「ナンバ一番」の人気投票で1位を獲得したのだそうです。

「ファニーズ」(左から)森本太郎さん、加橋かつみさん、瞳みのるさん、沢田研二さん、岸部修三さん。
加橋かつみは18歳の時、「ファニーズ」として「全関西ロックバンド・コンテスト」で優勝していた
そして、1966年5月10日には、京都会館で開催された「全関西ロックバンド・コンテスト」に出場すると、「ローリング・ストーンズ」の「サティスファクション」を演奏し、見事、優勝したのだそうです。

「ファニーズ」。(左から)森本太郎さん、加橋かつみさん、瞳みのるさん、沢田研二さん、岸部修三さん。
加橋かつみは18歳の時、「ファニーズ」のメンバーと「明月荘」で合宿生活を開始していた
また、加橋かつみさんたち「ファニーズ」のメンバーは、スカウトの目に留まるためには、なるべくたくさんのステージに立たなければならないと思い、
「全関西ロックバンド・コンテスト」を終えた3日後の1966年5月13日には、「ナンバ一番」の近くの、大阪市西成区岸里の古いアパート「明月荘」で合宿生活を始めるようになったそうです。
とはいえ、「明月荘」は、決して恵まれた場所ではなく、老朽化した木造2階建て、三畳一間(共同トイレ)で、昼間でも薄暗く、常に湿気がまとわりつくような快適とは言えない環境なうえ、メンバー全員で一階に住んでいたそうで、
加橋かつみさんは一人部屋だったそうですが、沢田研二さんと森本太郎さんは相部屋、岸部修三さんと瞳みのるさんも相部屋だったそうで、
岸部修三さんは、
3部屋。僕は瞳と相部屋で、沢田は森本と。で、加橋かつみは一人。それでもかつみは時々、母親のいる実家に帰っちゃったりする。やっぱり共同で二人部屋とか、かつみにはしんどかったのかもわからない
と、語っています。

ファンの聖地として親しまれた「明月荘」は2019年4月に取り壊されてしまったそうです。
加橋かつみは18歳の時、「ファニーズ」として「ザ・スパイダース」の田邊昭知からスカウトされるも最終的にうやむやになっていた
さておき、合宿生活を始めてから、ちょうど1ヶ月が過ぎた頃には、森本太郎さんと沢田研二さんが東京の名門ライブハウス「ACB(アシベ)」に行った際、「ザ・スパイダース」のリーダー・田邊昭知さんと出会い、
上京するなら、スパイダクションに来ないか
と、スカウトされたそうで、
(加橋かつみさんたちにとって、「ザ・スパイダース」はただの憧れではなく、全員がファンクラブに入るほどの熱狂的なファンだったそうで、以前、大阪でライブを観に行った時には、井上堯之さんから直接励ましの声をかけてもらい感激していたそうです)
森本太郎さんと沢田研二さんが大阪に戻り、その話をメンバーに伝えると、みんなで飛び上がって喜んだそうです。
しかし、その後、田邊昭知さんからは一向に連絡がなく、連絡を待ちわびた森本太郎さんと沢田研二さんがしびれを切らして上京すると、田邊昭知さんの態度は以前とは別人のように冷ややかだったそうで、
結局、話はうやむやのまま立ち消えになってしまったのだそうです。
加橋かつみは18歳の時、「ファニーズ」として「ブルージーンズ」の内田裕也からもスカウトされていた
そんな中、大阪の「ナンバ一番」で共演者だった「ブルージーンズ」の内田裕也さんからも、
東京に出て来ないか
と、声をかけられたそうで、
メンバーは二つ返事で、
行きます!
と、即答したそうですが・・・
またしても音沙汰はなかったのだそうです。
(そもそも内田裕也さんには加橋かつみさんらをスカウトする権限がなかったそうです)
加橋かつみは18歳の時、「ファニーズ」として「渡辺プロダクション」と正式に契約していた
そこで、今度は、業を煮やした瞳みのるさんが、1966年9月12日、単身で東京に乗り込んだそうで、
9月14日には、内田裕也さんの計らいで宿泊先に呼ばれ、内田裕也さんが所属する「渡辺プロダクション」への紹介を取り付けると、
同年10月9日には、渡辺プロダクションの重鎮が大阪に来て、「ナンバ一番」でオーディションが行われたそうで、10月21日には合格の電話があり、ついに、契約が決まったのだそうです。
ちなみに、加橋かつみさんが、本格的にプロを目指し始めたのは、1966年6月の「ザ・ビートルズ」日本武道館公演がきっかけだったそうで、
当時、高校生だった加橋かつみさんは、社会の矛盾や戦争に対して真剣に向き合い、学生運動にも参加していたそうですが、
目の前で繰り広げられたビートルズのステージで、その音楽を聴き、そのたたずまいを目の当たりにした瞬間、
学生運動なんかしている場合じゃない、人の気持ちを一瞬にして変える音楽という世界があるんだ
と、根底から価値観が覆ったそうで、
学生運動よりも、音楽で伝えるほうが、よほどストレートに届くということに気がついたのだそうです。
とはいえ、実際、プロを目指して突き進む中、迷いも生じていたそうですが、瞳みのるさんの大胆な行動に背中を押される形で、「渡辺プロダクション」と契約したそうで、
加橋かつみさんは、
(東京でも噂になり、「ナンバ一番」にスカウトが見に来るようになると)そうしたら、ドラムスの瞳が一人で勝手に東京に出て行って、渡辺プロダクションと契約の話を進めてきちゃったんです。
びっくりしましたけれど、これはしょうがないな、と。それでも、契約書にサインする気になったのは、僕が最後だったと思います。あんな馬鹿なことがなければ僕はプロにはなっていなかったでしょう。趣味でバンドを続けていたと思います。
と、語っています。
「【画像】加橋かつみの若い頃(タイガース時代)のヒット曲ほか経歴は?」に続く

「ファニーズ」(左から)瞳みのるさん、岸部修三さん、森本太郎さん、沢田研二さん、加橋かつみさん。
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