1967年2月5日、18歳の時、「ザ・タイガース」のドラマーとして「僕のマリー」でデビューすると、その甘いマスクで、グループの中でも1,2位を争う人気を博した、瞳みのる(ひとみ みのる)さん。
そんな瞳みのるさんは、幼い頃、歌を歌うことが好きだった3歳年上のお兄さんの影響で音楽が好きになったそうで、
高校2年生の時、中学校時代の同級生・岸部修三(現・岸部一徳)さん、小中学校時代の同級生・森本太郎さんと再会し、3人でダンスホール「田園」に通うようになると、高校3年生の時には、加橋かつみさんも加え、4人でバンド「サリーとプレイボーイズ」を結成したといいます。
今回は、瞳みのるさんの幼少期(生い立ち)から「サリーとプレイボーイズ」結成までを時系列でご紹介します。

瞳みのるのプロフィール
瞳みのるさんは、1946年9月22日生まれ、
京都市上京区の出身、
学歴は、
京都市立仁和小学校
⇒京都市立北野中学校
⇒京都府立山城高等学校の夜間部中退後復学
⇒慶應義塾大学文学部中国文学科卒業
⇒慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了
だそうです。
瞳みのるの本名は?愛称ピーの由来は?
瞳みのるさんの本名は、人見豊(ひとみ みのる)というそうです。
また、瞳みのるさんは、「ピー」という愛称で呼ばれているそうですが、
幼い頃、キューピー人形のように目が大きく、頭が大きかったことから、お母さんの代わりに世話をしてくれていた乳母により、名付けられたそうです。
瞳みのるが幼い頃は大きなお屋敷で乳母日傘で育てられるも母親が若くして他界していた
瞳みのるさんは、洋傘問屋を営むお父さんのもと、3人きょうだい(姉1人、兄1人)の末っ子として誕生したそうですが、お母さんが体が丈夫ではなかったことから、瞳みのるさんのために乳母が雇われたそうで、
当時は、お父さんの商売がうまくいっていたことから、離れまである大きなお屋敷で、まさに乳母日傘(おんばひがさ)で育てられたそうです。
ただ、瞳みのるさんが2歳の時に、お母さんは30歳の若さで他界されたそうです。
(とはいえ、乳母が大切に育ててくれていたことから、寂しさを感じることはなかったそうです)
瞳みのるは小学生時代、継母に妹たちと差別されていた
しかし、瞳みのるさんが小学校に入学した頃くらいから、お父さんの商売が傾き始めたことから、かわいがってくれた乳母は去ってしまったそうで、
代わりに、お父さんが再婚し、再婚相手が家に来るも、この継母は優しい人ではなく、特に、その後、妹3人が生まれてからは、衣類や食べ物など、明らかに妹たちと差別されたそうで、
(瞳みのるさんのきょうだいは、全員で6人(姉1人、兄1人、瞳みのるさん、妹3人))
給食費や学用品を買うお金も出してくれず、学校に行きたくなかったこともあったといいます。
そのため、小学5年生になり、朝夕、新聞配達でお金を稼ぐことができるようになった時は、うれしかったそうで、
瞳みのるさんは、
本来は自立するような人間ではないんです。でも、義理の母親にいろいろやってもらえなかったから、自分でやらなきゃいけない、自分のことは自分で、という強い気持ちが芽生えたのは確かです。
だから、今では逆に、義理の母に感謝しております。
と、語っています。
瞳みのるは幼い頃、兄の影響で音楽が好きになっていた
そんな中、瞳みのるさんは、3歳年上のお兄さんが、唱歌や童謡を歌うことが好きで、いつも歌を口ずさんでいたことから、その影響で歌(音楽)が好きになったといいます。
実は、瞳みのるさんの亡くなったお母さんは、宝塚歌劇団に入りたかったそうで、お兄さんの歌好きはそんなお母さんから受け継いだものだったそうですが、
瞳みのるさんも、自身が音楽に興味を持ったのは、お母さんが遺してくれたものだと思っているそうです。
ちなみに、お兄さんは、35歳という若さで他界されたそうですが、瞳みのるさんが55歳の時、お姉さんから初めてお母さんの写真を見せてもらった時、お兄さんと驚くほど似ていたといいます。
(瞳みのるさんには、お母さんの記憶が全くないそうです)
瞳みのるは小学3年と4年で森本太郎と同じクラスもほとんど話したことがなかった
その後、瞳みのるさんは、後に「ザ・タイガース」で共に活動することになる森本太郎さんと、小学校3年生と4年生の時、同じクラスだったそうですが、この頃は、ほとんど口を聞かず、
中学も、同じ北野中学校に進学するも、今度は、クラスがずっと別々で、ほとんど交流がなかったそうです。
(中学卒業後は、それぞれ別々の高校に進学したそうです)
瞳みのるは中学時代に岸部修三(現・岸部一徳)と知り合い意気投合していた
そんな中、瞳みのるさんは、中学で、同じく後に「ザ・タイガース」で共に活動することになる、岸部修三(現・岸部一徳)さんと出会うと、岸部修三さんは、暗い顔をして寡黙(かもく)で、友達はいなかったそうですが、
瞳みのるさんがしていた早朝の牛乳配達の仕事を一緒にするようになり、親交を深めると、
修学旅行の時には、歌の話で意気投合したそうで、一緒に歌ったところ、瞳みのるさんは、すっかり、岸部修三さんの低音ボイスの素晴らしさに魅了されたそうです。
ただ、その後、瞳みのるさんは京都府立山城高等学校の夜間部に進学し、岸部修三さんは別の高校に進学したことから、一旦、親交は途絶えたそうです。
瞳みのるは高校2年生の時に偶然、森本太郎と再会すると岸部修三(現・岸部一徳)を紹介し3人で遊ぶようになっていた
しかし、1963年、高校2年生の時、偶然、京都の四条河原町で岸部修三さんと再会すると、これをきっかけに、再び、岸部修三さんと交流するようになり、
その後(同年)、岸部修三さんと京都の四条河原町を上っていると、今度は、河原町通蛸薬師通りで、偶然、三条河原町を下っていた森本太郎さんと出会ったそうで、
瞳みのるさんが、森本太郎さんに、一緒にいた岸部修三さんを、
同じ北中(北野中学校)だよ
と紹介し、一緒に河原町から木屋町に行って3人で夕食を食べると、これをきっかけに、3人で遊ぶようになったそうです。

瞳みのるは高校3年生の時に加橋かつみと知り合っていた
また、瞳みのるさんは、高校3年生の時、学校の食堂で、転校生で2つ後輩の加橋かつみさんと知り合ったそうですが、
加橋かつみさんは、他の生徒と一風も二風も変わっていて、ベレー帽をかぶり、画学生や画家がアトリエで着るところどころ絵の具の筆の跡がついた白っぽい上っ張りを着て、スケッチブックを脇に抱え、いかにも自分は画家の卵であるといった格好をしていたそうで、
瞳みのるさんは、加橋かつみさんの第一印象について、
かつみは初めて会ったときから、格好つけ。いつもポーズ作って、格好をつけないと気が済まない。だから目立っていた。そういう意味では、芸能界向きだったのかもしれない。
と、語っています。
瞳みのるは高校時代は、岸部修三(現・岸部一徳)、加橋かつみ、森本太郎と4人で一緒に遊ぶようになっていた
その後、瞳みのるさんが、加橋かつみさんを、森本太郎さんと岸部修三さんに紹介し、4人で一緒に遊ぶようになり、パチンコ、麻雀、ダンスに夢中になったそうですが、特に麻雀をよくやったそうで、
加橋かつみさんは、母一人子一人の家庭でお母さんが仕事で忙しく家にいることが少なかったことから、加橋かつみさんの暮らすアパートがたまり場となり、ほぼ連日、寝食を忘れて麻雀に没頭したそうです。
瞳みのるは18歳の時にバンド「サリーとプレイボーイズ」を結成しドラムを担当していた
また、4人は、京都の四条河原町にあったダンスホール「田園」に入り浸るようになったそうですが、そこでは、レコードではなく、生バンドが当時流行していたロックンロールを多く演奏していたそうで、
そんな中、1965年、瞳みのるさんの提案で、楽器でもやろうかと、4人でバンド「サリーとプレイボーイズ」というインストゥルメンタルバンドを組んだそうです。
ちなみに、パートはそれぞれの希望で、瞳みのるさんはドラムを担当することになったそうですが、瞳みのるさんがドラムを担当したのは、身体的な理由からだったそうで、
瞳みのるさんは、幼い頃、継母にかまってもらえなかったことや、自分の分は自分で働いて稼がなければならなかったことから、自分の体を顧みている暇がなく、気がつくと、手足のしもやけがひどくなっていたそうで、
特に、左手の小指はひどく、高校生の時、ハワイアンにはまっていたお兄さんにウクレレを教えてもらった際、左手で弦をうまく押さえられないことに気がつき、ギターを諦めてドラムにしたのだそうです。
(左手の小指は、今でも曲がったままで、まっすぐ伸ばすことができないそうです)
瞳みのるは18歳の時、「サリーとプレイボーイズ」としてダンスホールで人気を博していた
こうして、森本太郎さんの自宅に集まって、みんなで練習するようになり、
(森本太郎さん以外は、みんな楽器が初めてだったそうです)
パーティー券を売っては、ダンスホールで、主に「ベンチャーズ」などのエレキインストナンバーを演奏すると、「サリーとプレイボーイズ」は、たちまち、人気を博したのだそうです。
ちなみに、森本太郎さんは、「サリーとプレイボーイズ」を結成した理由について、瞳みのるさんと岸部修三さんが、中学の同級生だった坂田壽男さんのバンド「Back Beets(バックビーツ)」の練習をよく観に行っていたことがきっかけと語っているのですが、
1965年1月に大阪で開催された「ベンチャーズ」のコンサートを4人で観に行き、感激したのがきっかけという話もあるようです。
「【画像】瞳みのるの若い頃(サリーとプレイボーイズ~ファニーズ)は?」に続く
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1965年、岸部修三(現・岸部一徳)さん、森本太郎さん、加橋かつみさんと共にインストゥルメンタルバンド「サリーとプレイボーイズ」を結成し、京都や大阪のダンスホールで活動し始めると、翌年の1966年には沢田研二さんをボーカ …








