1965年、岸部修三(現・岸部一徳)さん、森本太郎さん、加橋かつみさんと共にインストゥルメンタルバンド「サリーとプレイボーイズ」を結成し、京都や大阪のダンスホールで活動し始めると、翌年の1966年には沢田研二さんをボーカルに迎えて、「ファニーズ」と改名した、瞳みのるさん(ひとみ みのる)さんは、
その後、プロデビューを目指して合宿生活を送ると、ジャズ喫茶「ナンバ一番」で共演した内田裕也さんとの出会いがきっかけで、ついに、1966年10月、渡辺プロダクションとの契約にこぎつけます。
今回は、瞳みのるさんの、若い頃(「サリーとプレイボーイズ」時代~「ファニーズ」時代)をご紹介します。

「瞳みのるの生い立ちは?高校から岸部一徳・森本太郎・加橋かつみと遊んでいた!」からの続き
瞳みのるが19歳の時「サリーとプレイボーイズ」に沢田研二が加入していた
瞳みのるさんは、1965年、岸部修三(現・岸部一徳)さん、森本太郎さん、加橋かつみさんと共に、インストゥルメンタルバンド「サリーとプレイボーイズ」を結成し、主に「ベンチャーズ」などのエレキインストナンバーを演奏していたそうですが、
やがて、「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」が流行り始めたことから、ボーカルやコーラスの必要性を感じるようになったそうで、
そんな中、森本太郎さんと岸部修三さんが、四条河原町のダンスホール「田園」で、バンド「サンダース」のボーカル兼サポートメンバーとして活動し、歌が上手いと評判だった沢田研二さんを誘うと、
1966年元旦、沢田研二さんが「サリーとプレイボーイズ」に加わり、同時に、「サリーとプレイボーイズ」は「ファニーズ」に改名したそうです。
瞳みのるは沢田研二の「サリーとプレイボーイズ」加入に乗り気ではなかった
ただ、瞳みのるさんは、「サリーとプレイボーイズ」のメンバー全員がアイビールックのファッションで揃えていたのに対し、沢田研二さんだけ、一昔前のチンピラ風のファッションだったことから、沢田研二さんを「サリーとプレイボーイズ」に誘う際、あまり乗り気ではなかったといいます。
それでも、この時、「サリーとプレイボーイズ」は、演奏技術も将来の展望もなく不安な状況だったことから、沢田研二さんに声をかけたそうですが、
沢田研二さんは快諾してくれ、そこから「ファニーズ」が誕生したことから、今では、沢田研二さんが入ってくれて良かったと思っているそうです。
(瞳みのるさんは、今だに、なぜ、沢田研二さんが入ってくれたのか、その理由が分からないそうです)

「ファニーズ」(左から)森本太郎さん、加橋かつみさん、瞳みのるさん、沢田研二さん、岸部修三(現・岸部一徳)さん。
瞳みのるは19歳の時に「ファニーズ」としてジャズ喫茶「ナンバ一番」のオーディションを受けるも不合格だった
さておき、沢田研二さんがバンドに加わり、ボーカルという大きな武器を得たことで、それまで京都のジャズ喫茶での演奏やダンスパーティーの企画といった”遊びの延長”だった瞳みのるさんらの活動は、一気に、”プロを目指す”という明確な目標へと変わったそうで、
瞳みのるさんたち4人は、プロとして活動するためにはプロダクションへの所属が不可欠だと考え、狙いを定めたのが、大阪・難波にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」だったそうです。
(「ナンバ一番」は、内田裕也さん率いる「ブルージーンズ」をはじめ、プロの世界で活躍する有名ミュージシャンやプロダクション関係者が集う場所だったそうで、瞳みのるさんたちにとって、プロへの登竜門として非常に魅力的なステージだったそうです)
そこで、瞳みのるさんは、一人で大阪に行き、「ナンバ一番」の専属オーディションを受けさせてもらえるよう、「ファニーズ」を熱心に売り込み、専属オーディションを受けさせてもらう約束を取り付けたそうですが・・・
本番当日(1966年1月16日)、「ビートルズ」の「I Saw Her Standing There」と、「デイヴ・クラーク・ファイヴ」の「Do You Love Me」を披露するも、不合格となってしまったそうです。
瞳みのるは19歳の時に代役ながら「ファニーズ」として「ナンバ一番」に出演していた
しかし、後日、森本太郎さんの自宅に電話がかかってきて、(予定していた出演者が急に出られなくなったため、代役として)「ナンバ一番に出てほしい」との依頼があったそうで、
森本太郎さんから、ナンバ一番に出られることを聞いた瞳みのるさんたち「ファニーズ」のメンバーは、大喜びしたのだそうです。
また、出演はたった1日だけで、売れているバンドの前座だったそうですが、この日1日でファンになってくれた人たちもいたそうで、
これがきっかけとなり、ファンが増え、「ナンバ一番」への出演回数が増えていったそうです。
瞳みのるは19歳の時に「ファニーズ」として「全関西ロックバンド・コンテスト」で優勝していた
そんな「ファニーズ」は、「ナンバ一番」で、「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」といった洋楽カバーを英語で披露していたそうですが、
やがて、その高い音楽性は大きな評判となり、ほどなくして、専用のファンクラブまで設立されたそうで、
ステージ回数も驚くほどのペースで増えていき、最初は月に2日ほどだったレギュラーも、月単位の仕事をもらえるようになったのだそうです。
そして、その勢いのまま、1966年5月10日、京都会館で開催された「全関西ロックバンド・コンテスト」で、「ローリング・ストーンズ」の「サティスファクション」を熱演すると、見事、優勝したのでした。
瞳みのるは19歳の時、「ファニーズ」のメンバーたちと「明月荘」で合宿生活を開始していた
また、瞳みのるさんは、この頃、親から勘当されており、「ナンバ一番」の近くの、大阪市西成区岸里の古いアパート「明月荘」を借りて、一人暮らししていたそうですが、
「ナンバ一番」の仕事が忙しくなってきたことから、他のメンバーも京都から通うことが大変になり、「全関西ロックバンド・コンテスト」から3日後の1966年5月13日から、瞳みのるさんと同じアパートで合宿生活を始めたそうです。
ちなみに、この「明月荘」は、家賃は、一部屋あたり3000~4000円で、部屋割りは、瞳みのるさんと岸部修三さん、沢田研二さんと森本太郎さん、加橋かつみさんだけが階段下の小部屋に一人で住んでいたそうで、
瞳みのるさんは、「明月荘」について、自伝「ロング・グッバイのあとで」で、
リンド・アンド・リンダースのベースマン・宇野山さんが住んでいたのはアパート「明月荘」(昼間でさえ暗く、湿気の多い薄汚れた木造二階建て)であった。
三畳一間、共同トイレ。場所は釜ヶ崎に近い岸里で決して品のよいところではなかった。
と、綴っています。
(宇野山さんが「自分の向かいの部屋が空いてるよ」と明月荘を紹介してくれたそうです)

2019年、取り壊される前の「明月荘」の前で微笑む瞳みのるさん。
瞳みのるは19歳の時に「ファニーズ」として「ザ・スパイダース」の田邊昭知にスカウトされるも最終的には立ち消えになっていた
すると、合宿生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃、森本太郎さんと沢田研二さんが、東京・銀座にある人気のライブハウス「ACB(アシベ)」を訪れた際、
当時のグループ・サウンズ界を牽引していた「ザ・スパイダース」のリーダー・田邊昭知さんから、
上京するならスパイダクション(現・「田辺エージェンシー」)へ来ないか
と、スカウトされたそうで、
これを聞いた瞳みのるさんたちメンバーは、全員「ザ・スパイダース」の熱狂的なファンだったことから、大喜びしたそうですが・・・
田邊昭知さんからは、その後、一向に連絡がなく、森本太郎さんと沢田研二さんが再び上京し、田邊昭知さんに直接面会するも、田邊昭知さんの反応は以前と打って変わって冷たかったそうで、
結局、このスカウト話は、うやむやになり、立ち消えとなってしまったのだそうです。
瞳みのるは19歳の時に「ファニーズ」として「ブルージーンズ」の内田裕也にスカウトされていた
しかし、ある日のこと、瞳みのるさんたちが「ナンバ一番」の楽屋に向かう階段で、共演者だった「ブルージーンズ」の内田裕也さんに、
君たち、俺と一緒にやんねぇか?
と、声をかけられたそうで、
瞳みのるさんたちは、即答でこの誘いに乗ったそうですが・・・
またしても、その後、具体的な話が進まず、しばらく何の連絡もない状態が続いたのだそうです。
(実は、内田裕也さんにはスカウトの権限がなかったそうです)
瞳みのるは19歳の時に「ファニーズ」として「渡辺プロダクション」と契約していた
そこで、瞳みのるさんは、居ても立っても居られなくなり、1966年9月12日、宣伝材料を携え、単身で上京したそうで、
9月14日、内田裕也さんに宿舎ホテルに呼ばれると、内田裕也さんのバンド「ブルージーンズ」が所属していた「渡辺プロダクション」を紹介してもらうことを約束してもらったそうで、
同年10月9日、「ナンバ一番」で「渡辺プロダクション」の偉(えら)い人が見ている前でオーディションが行われると、10月21日、ついに、「ファニーズ」は、合格の電話をもらい、契約が決まったのだそうです。
(契約(上京)が決まると、ファンが京都の府立植物園でお別れ会を開いてくれたそうで、瞳みのるさんはとても嬉しかったそうです)
「【画像】瞳みのるの若い頃(ザ・タイガース時代)のヒット曲ほか経歴は?」に続く
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1967年2月5日、20歳の時、「ザ・タイガース」として1stシングル「僕のマリー」でデビューすると、同年5月にリリースした2ndシングル「シーサイド・バウンド」と1968年1月にリリースした4thシングル「君だけに愛を」が共に約40万枚の大ヒットとなり、 さらに、5thシングル「銀河のロマンス/花の首飾り」は130万枚超の大ヒットとなった、瞳みのる(ひとみ みのる)さん。 今回は、そんな瞳みのるさんの、若い頃(「ザ・タイガース」時代)の経歴を、ヒット曲(シングル)などを交えて時系列でご紹介します。








