1957年、27歳の時、上京し、バンド「ウエスタン・キャラバン」として、「マナセプロダクション」と契約した、相澤秀禎(あいざわ ひでよし)さんは、ミュージシャンとしてスティール・ギターを演奏しつつ、マネージャーとしても活動し、山下敬二郎さんの引き抜きにも成功したそうですが、
やがて、ミュージシャンを引退してマネージャーに専念すると、松島アキラさんや西郷輝彦さんをスカウトするなど、マネージャーとしての才能を発揮したといいます。
今回は、そんな相澤秀禎さんの、若い頃(上京してミュージシャン兼マネージャーとして活動開始~マネージャーに専念~西郷輝彦と決別)をご紹介します。

「相澤秀禎の生い立ちは?高校時代から米軍基地でバンド活動をしていた!」からの続き
相澤秀禎は27歳の時に山下敬二郎の引き抜き交渉に成功していた
1957年、上京し、バンド「ウエスタン・キャラバン」として「マナセプロダクション」と契約すると、ついに、念願だった銀座のジャズ喫茶「テネシー」への出演を果たした相澤秀禎さんは、
同年(1957年)、「ウエスタン・カーニバル」のステージで山下敬二郎さんを知ると、その才能に惚れ込んだそうで、自身のバンド「ウエスタン・キャラバン」のメインボーカルとして迎え入れるべく、「マナセプロダクション」の曲直瀬信子さんとともに、熱心に引き抜き交渉を始めたそうですが、
山下敬二郎さんは、所属先である「サンズ・オブ・ドリフターズ」のリーダー・岸部清さんに強い恩義を感じていたため、当初は、なかなか移籍の話に応じてくれなかったそうです。
それでも、相澤秀禎さんが諦めず、曲直瀬信子さんと二人三脚で粘り強く説得を続けると、ついには、その情熱に山下敬二郎さんも、送り出す側の岸部清さんも根負けしたそうで、1957年12月、山下敬二郎さんの「ウエスタン・キャラバン」への移籍が決まったそうです。
相澤秀禎は27歳の時に山下敬二郎をプロデュースして成功を収めていた
そして、相澤秀禎さんは、山下敬二郎さんのトレードマークである長い脚を強調するため、山下敬二郎さんにタイトなズボンをはかせるなど、ファッション面からもプロデュースするほか、
父親である落語家の柳家金語楼さんとの親子共演を企画して芸能雑誌に売り込むなど、多角的な戦略を展開すると、
山下敬二郎さんのデビュー曲となる「ダイアナ」(「ウエスタン・キャラバン」はバックバンドを担当)は大ヒットを記録したそうで、
新しい人間を、どう育て、どう売っていくか
という、醍醐味に酔いしれたのだそうです。
(「ダイアナ」は、平尾晃さんが歌うという情報も入ってきていたそうですが、強気で先行したことで勝利を収めることができたのだそうです)
相澤秀禎は29歳の時にミュージシャンを辞めマネージャーに専念していた
しかし、1958年8月には、山下敬二郎さんが、「マナセプロダクション」から同系の「渡辺プロダクション」に移籍すると、
追い打ちをかけるように、相澤秀禎さん以外の4人のメンバーも、自分たちだけで新しいバンドを作るべく、バンドを辞めてしまったそうで、
相澤秀禎さんは、
そうか、自分に至らないところがあったんだ。奢(おご)りの中にいたんだ
と、突きつけられた現実に打ちのめされながらも、
俺はマネージャーになる。もう一度、新しい山下敬二郎を探す。俺ならできる
と、決意し、
1959年12月31日、29歳の時、宝物だったスティール・ギターを手放して現役を引退し、盟友である堀威夫さんが立ち上げた「東洋企画」にマネージャーとして参加したのだそうです。
相澤秀禎は「東洋企画」では守屋浩を担当する優秀なマネージャーだった
すると、相澤秀禎さんは、「東洋企画」では、守屋浩さんを担当することになったそうですが、とても優秀なマネージャーだったそうで、
「東洋企画」の設立者・堀威夫さん(後の「ホリプロ」設立者)は、
(相澤秀禎さんは)マネージャーになって、僕のアシスタントをずっとやっていたんですよ。とにかくよく働いた。マネージャーとしては最高。ともかく車の運転から何から。
守屋浩の全盛時代は、あいつが運転して現場のマネジメントをやっている。スケジュールがタイトだから、間に合わないと歩道を走っちゃうんだよ(笑)。
猛烈なスケジュールをこなした後、夜に僕のところに報告に来ながら一緒に飲んだり飯食ったりしていたんだから。すごいタフだよね。
と、語っています。
相澤秀禎はクーデターで堀威夫が解雇された後も「東洋企画」に残っていた
そんな相澤秀禎さんは、堀威夫さんとともに、ささきいさおさん、佐川満男さん、ディックミネさんの三男の三根ヨシオさんらを次々とスカウトし、「東洋企画」を拡大させていったそうですが、
(相澤秀禎さんは、ささきいさおさん、佐川満男さん、黛ジュンさんらのマネージャーをしていたそうです)
1960年の秋には、「東洋企画」の共同設立者だった谷富次郎社長がクーデターを起こし、堀威夫さんは「東洋企画」を解雇されてしまいます。
また、そんな中、守屋浩さんと田邊昭知さんも堀威夫さんの後を追って辞めているのですが、
相澤秀禎さんは、守屋浩さん以外のタレントと共に「東洋企画」に残っています。
相澤秀禎は31歳の時に「竜巳プロダクション」を設立し松島アキラをデビューさせていた
ただ、相澤秀禎さんも、1961年、31歳の時には、「東洋企画」を辞め、「竜巳プロダクション」を設立しており、
同年、渋谷の「マリンバ」で出会った松島アキラさんをスカウトして「湖愁」でデビューさせると、松島アキラさんは、同年末の「第3回日本レコード大賞新人奨励賞」を受賞しています。

「湖愁」
相澤秀禎は32歳の時に西郷輝彦をスカウトしマネージャーを務めていた
また、1962年の暮れには、歌手を目指して「サンズ・オブ・ウエスト」のバンドボーイとして関西や名古屋のジャズ喫茶を回っていた西郷輝彦さんと、名古屋で出会うと、
ユー、オーラがあるよぅ。
と、「竜巳プロダクション」にスカウトし、
1963年の春には、上京させ、「ウエスタン・キャラバン」にボーカルとして加入させると、
当初は、ほとんど仕事がなく、ようやく、仕事が入っても浅草のキャバレーのヌードショーだったことから、ボーカルの必要はなく、西郷輝彦さんはバンドの後ろでパーカッションを叩いているような状況だったそうですが、

相澤秀禎さん(左)と西郷輝彦さん(右)。
1963年、33歳の時、「竜巳プロダクション」を解散し、西郷輝彦さんとともに、岸部清さんが設立した「第一プロダクション」に移籍すると、
1964年、「君だけを」でデビューした西郷輝彦さんは、たちまち大ヒットを記録し、この年の「第6回日本レコード大賞新人賞」を受賞するほか、
橋幸夫さん、舟木一夫さんとともに「御三家」と呼ばれて大ブレイクし、日本中を沸かすスーパーアイドルとなったのでした。

「君だけを」
相澤秀禎は次なるスター「森田健作」を誕生させていた
その後、相澤秀禎さんは、1965年、西郷輝彦さんと「第一プロダクション」を辞め、西郷輝彦さんのお父さんを社長に据えて、個人事務所「日盛プロダクション」を立ち上げているのですが、
1967年頃になると、グループ・サウンズブームに押され、西郷輝彦さんの人気にも翳りが見え始めたそうで、相澤秀禎さんは、一刻も早く新たなスターを発掘しなければと焦っていたといいます。
そんな中、国民的スターである西郷輝彦さんのマネジメントに忙殺されていたことから、西郷輝彦さんのバックバンドのドラマーから西郷輝彦さんの現場マネージャーを務めるようになっていた福田時雄さん(現・「サンミュージック」名誉顧問)にスカウトを一任すると、
やがて、福田時雄さんは、一人の少年(後の森田健作さん)を連れてきたそうで、その少年は、ボサボサの髪に学生服、足元は高下駄という強烈なバンカラな姿をしていたそうですが、
相澤秀禎さんは、その風貌に宿る、新しい時代の若者らしい生命力を一目で見抜き、
これはイケる!
と、確信したそうで、
オウ!ユー、OK?オゥオゥいいじゃん、頑張れよ!
と、少年に声をかけたのだそうです。
(実はこの少年、ダンサーの姉を訪ねて「日劇ダンシングチーム」の楽屋に現れた際、居合わせた女性ダンサーたちが一瞬で釘付けになったといいます)
また、ちょうど、その頃、黛ジュンさん主演の映画「夕月」の企画が持ち上がり、相手役は西郷輝彦さんが期待されていたそうですが、西郷輝彦さんのスケジュールが既にいっぱいだったことから、相手役は一般公募されることになったそうですが、
相澤秀禎さんは、この好機を逃すまいと、その少年(森田健作さん)にオーディションを受けさせると、その少年は、一般公募6300人の中から、見事、選ばれたのだそうです。

(当時、森田健作さんは、大学受験(外交官志望)のため浪人中で、親からも芸能界入りを反対されていたそうですが、相澤秀禎さんが、ステーキやお寿司などおいしいものを何度も食べに連れて行って口説いたそうで、これが功を奏し、森田健作さんの首を縦に振らせることに成功したのだそうです)
相澤秀禎は38歳の時に西郷輝彦と決別していた
こうして、組織の将来を見据えていた相澤秀禎さんは、西郷輝彦さん一人に頼り続ける経営にはリスクがあると考え、新人の育成に力を入れ始めていたのですが、
「日盛プロダクション」は、西郷輝彦さんのお父さんが社長を務める個人事務所だったことから、西郷輝彦さんにしてみれば、自分を支えるための事務所の資金と時間が新人に投じられるというのは寝耳に水で、
しかも、自分が出演するはずだった映画まで、その新人に割り振られたことは、受け入れ難い裏切りと感じたそうで、相澤秀禎さんに強い不信感を募らせたといいます。
そして、かつて蜜月だった相澤秀禎さんと西郷輝彦さんの関係は、経営方針の決定的な食い違いから修復不可能なほどに悪化していったそうで、
ついに、相澤秀禎さんは、西郷輝彦さんから、
2つに1つにしよう。うちの事務所で新人もやるか、それともあなたが出て行って1人で新人の世話をするか、だ。どうする?
と、言われたそうですが、
相澤秀禎さんの心はすでに決まっており、
君と別れてやりたい
と、答えたそうで、
相澤秀禎さんは、西郷輝彦さんおよび「日盛プロダクション」と決別したのだそうです。
「相澤秀禎の若い頃(サンミュージック以降)から死去までの経歴は?著書は?」に続く
![]()


