1968年、「山賊の唄が聞こえる」で漫画家デビューすると、以降、独自のナンセンスギャグ漫画で人気を博し、その後、「新選組」や「坂本龍馬」など史実に基づく緻密な歴史漫画のジャンルを切り拓いた、黒鉄ヒロシ(くろがね ひろし)さん。

そんな黒鉄ヒロシさんは、幼い頃から、一人で遊ぶことが多く、また、歴史が大好きだったことから、「戦国武将一人メンコ」など独自の遊びを考え出すなど、発想力の豊かな子供だったといいます。

今回は、黒鉄ヒロシさんの、幼少期(生い立ち)から大学を除籍になるまでをご紹介します。

黒鉄ヒロシ

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黒鉄ヒロシのプロフィール

黒鉄ヒロシさんは、1945年8月3日生まれ、
高知県高岡郡佐川町の出身、

学歴は、
私立土佐高校
⇒武蔵野美術大学商業デザイン科除籍

趣味は、競馬で、かつてはギャンブル通で知られ、現在も競馬だけは続けているそうです。

黒鉄ヒロシの本名は?ペンネームの由来は司牡丹?

黒鉄ヒロシさんの本名は「竹村弘(たけむら ひろし)」というそうですが、

ペンネームの「黒鉄」は、家業である「司牡丹(つかさぼたん)酒造」の屋号「黒金屋」から名付けたそうです。

ちなみに、この実家は高知県佐川町にある創業400年以上の老舗酒蔵で、黒鉄ヒロシさんの高祖母(祖父母の祖母)は、あの坂本龍馬と直接話をしたことがあるのだそうです。

(当時、高知では、坂本龍馬は少し恐れられている存在だったといいます)

黒鉄ヒロシは幼い頃から歴史が大好きで「戦国武将一人メンコ」という遊びを考え出していた

さておき、黒鉄ヒロシさんは、「司牡丹酒造」を営む両親のもと、2人兄弟の次男として誕生すると、幼い頃から大の歴史好きだったそうで、

「戦国武将一人メンコ」という独自の遊びを考え出して熱中し、畳のへりを街道に見立て、カマボコの板で作った本能寺に向かって明智光秀軍を進軍させては、「信長の運命やいかに!」と一人で大興奮していたといいます。

というのも、当時、両親は家業の酒蔵(司牡丹酒造)の仕事で忙しく、お兄さんも年が離れていたことから、自然と、幼い頃からこのように一人で想像を膨らませて楽しむ習慣が身についていったのだそうです。

黒鉄ヒロシは高校1年生の時に進学先を美術大学に定めるも自身のデッサン力に落胆していた

また、黒鉄ヒロシさんは、絵がうまいと言われていたそうで、高校1年生の時には、高校卒業後は美術大学に進学しようと決め、夏休みにはデッサン教室に通ったそうですが・・・

周囲の同輩たちとの圧倒的な実力差を目の当たりにし、自身のデッサン力に落胆と焦りを感じる日々を送ったといいます。

黒鉄ヒロシは高校生の時にビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴いて衝撃を受け学問以外で身を立てる決意をしていた

そんな中、黒鉄ヒロシさんは、1962年にデビューしたビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」(日本での発売は1964年2月)をレコード店の前で、偶然、耳にすると、カバンを落としてしまうほどの強い衝撃を受けたといいます。

実は、この頃、国際情勢は、「キューバ危機」「ケネディ暗殺」「ベルリンの壁の出現」と激動の真っ只中で、エンターテインメントも、「椿三十郎」(黒澤明監督)「シャボン玉ホリデー」「ウエストサイド物語」「ヒッチコック劇場」などが次々と生まれ、”第二の文明開化”とも言える時代だったそうで、

このような時代の大きな変化と、ビートルズの出現に象徴される時代の熱気に押し流されるようにして、

黒鉄ヒロシさんは、

もはや明治以来の健全な立身出世のコースをなぞる気にはなれない

と、考えるようになり、

美術大学を目指して美術の壁にぶつかっていた焦燥感も相まって、

学問以外で身を立てねばならない

と、決意したのだそうです。

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黒鉄ヒロシは武蔵野美術大学を除籍になっていた

こうして、黒鉄ヒロシさんは、1964年、高校卒業後は、武蔵野美術大学商業デザイン科に進学したそうですが・・・

競馬などのギャンブルに夢中になり、授業にほとんど出席しなかったことから、大学を除籍になってしまったのだそうです。

「【画像】黒鉄ヒロシの若い頃から現在までの代表作品(漫画)は?妻や子供は?」に続く

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