1982年、15歳の時、3人組ユニット「わらべ」として、1stシングル「めだかの兄妹」でレコードデビューすると、たちまち88万枚を売り上げる大ヒットとなり、

1983年、16歳の時には、2ndシングル「もしも明日が…。」も97万枚を売り上げる大ヒットとなった、倉沢淳美(くらさわ あつみ)さん。

今回は、そんな倉沢淳美さんの、生い立ち、若い頃から現在までの経歴を、ヒット曲などを交えて時系列でご紹介します。また、最後には、ディスコグラフィー(シングル、アルバム)もご紹介します。

倉沢淳美

Sponsored Link

倉沢淳美のプロフィール

倉沢淳美さんは、1967年4月20日生まれ、
神奈川県相模原市の出身、
神奈川県川崎市生まれ

身長157センチ、

血液型はB型、

学歴は、
堀越高等学校
⇒日本女子体育短期大学保育科卒業

趣味は、
ピアノ、エクササイズ、ドライブ、

ちなみに、「倉沢淳美」は本名で、結婚後は「淳美 ラング(あつみ らんぐ)」

だそうです。

倉沢淳美が幼い頃はピアノの先生か歌手になることが夢だった

倉沢淳美さんは、小学5年生の時にピアノを習い始めると、中学2年生まで熱心にレッスンに励んだそうです。

また、幼い頃から歌うことも好きで、ピアノと並行して、地元・神奈川県相模原市で毎年開催される「桜まつり」のステージでは、毎年のように歌声を披露していたそうで、

ピアノの先生か歌手になることを夢見るようになったそうです。

倉沢淳美は中学2年生の時、「欽也のそっくりベスト10」に出演したことがきっかけでスカウトされて芸能界入りしていた

そんな倉沢淳美さんは、中学生の時には、歌手のモノマネが得意だったそうで、

中学2年生の時、素人参加型のモノマネ歌合戦「欽也のそっくりベスト10」のオーディションを受けると、見事、予選を通過し、本選のステージへと勝ち進んだそうで、

本番のステージでは松田聖子さんの大ヒット曲「夏の扉」を歌唱すると、審査員から「79点」を獲得して合格。

すると、偶然、このオンエアをテレビで観ていた芸能事務所の社長の目に留まり、スカウトされて芸能界に入ったのだそうです。

倉沢淳美

倉沢淳美は15歳の時、「欽ちゃんの週刊欽曜日」のオーディションに合格するも「欽ちゃんのどこまでやるの!」に異動となっていた

その後、倉沢淳美さんは、1982年、15歳の時、バラエティ番組「欽ちゃんの週刊欽曜日」のオーディションを受けると、見事、合格したそうですが、

萩本欽一さんにより、「欽ちゃんのどこまでやるの!」に異動となったといいます。

(萩本欽一さんは、「欽ちゃんの週刊欽曜日」のメンバーである佐藤B作さんや小西博之さんらと、倉沢淳美さんのバランスに納得がいかなかったそうです)

倉沢淳美は15歳の時に「わらべ」としてリリースした1stシングル「めだかの兄妹」が88万枚を売り上げる大ヒット

すると、倉沢淳美さんは、「欽ちゃんのどこまでやるの!」の「萩本家の3人娘(3つ子)」のうちの一人、「かなえ」役に据えられ、

急遽、倉沢淳美さんと同い年の高部知子さん(のぞみ役)と高橋真美さん(たまえ役)もキャスティングされたそうで、

倉沢淳美さんは、1982年9月、「欽ちゃんのどこまでやるの!」に初出演を果たしています。

そして、同年12月21日には、3つ子の姉妹で結成したユニット「わらべ」のかなえとして、ファーストシングル「めだかの兄妹」でレコードデビューを果たすと、3ヶ月で売り上げ70万枚を突破し、88万枚を売り上げる大ヒット。

倉沢淳美さんは、その愛らしいルックスで、たちまち人気を博したのでした。

「めだかの兄妹」
「めだかの兄妹」(左から)のぞみ(高部知子さん)、かなえ(倉沢淳美さん)、たまえ(高橋真美さん)。

ちなみに、この「めだかの兄妹」は、1982年10月13日、「欽ちゃんのどこまでやるの!」のエンディングで、就寝するシーンの中で使われたのですが、

たちまち子供たちの間で人気を博し、幼稚園関係者から楽譜を求める問い合わせが殺到したそうで、

レコードは、当初、1983年1月にリリースされる予定だったところ、前倒しになって1982年12月21日にリリースされたのだそうです。

また、「めだかの兄妹」の編曲は、萩本欽一さんが、

売れっ子の編曲家は運を使っているので、知らない人にして

と、レコード会社の人に頼んだそうで、

(「まだ売れていない人の方が運を溜め込んでいる」という萩本欽一さんの考え方)

巡り巡って、坂本龍一さんが編曲を担当したそうですが、坂本龍一さんは、この曲の編曲に1週間も苦しんだといいます。

(この時、坂本龍一さんは、既に「YMO」でブレイクしていたのですが、萩本欽一さんは坂本龍一さんのことを知らなかったようです)

倉沢淳美は16歳の時に「わらべ」としてリリースした2ndシングル「もしも明日が…。」が97万枚を売り上げる大ヒット

そんな中、1983年6月には、裸で布団を被ってベッドに寝そべりタバコを口元に当てて笑う、のぞみ役の高部知子さんの写真が写真週刊誌「FOCUS」に掲載され、

これをきっかけに、同年8月頃には、高部知子さんが「わらべ」を脱退となっているのですが、

その後も、「わらべ」は、倉沢淳美さんと高橋真美さんの2人体制で継続すると、1983年12月21日(倉沢淳美さん16歳)にリリースした2枚目のシングル「もしも明日が…。」は、前作「めだかの兄妹」を上回る97万枚を売り上げる大ヒットを記録しています。

「もしも明日が…。」
「もしも明日が…。」(左から)見栄晴さん、かなえ(倉沢淳美さん)、たまえ(高橋真美さん)。

倉沢淳美は16歳の時に「プロフィール」でソロデビュー

その後、倉沢淳美さんは、1984年3月21日、16歳の時、アイドル歌手として「プロフィール」でソロデビューを果たすと、オリコンチャート4位にランクされるヒットを記録しており、

倉沢淳美さんは、2026年3月23日、自身のインスタグラムに、

1984年3月21日ソロデビュー 小さい頃からの夢が叶った日の喜びは特別な瞬間でした

と、投稿しています。

「プロフィール」
「プロフィール」

倉沢淳美は16歳の時、握手会で右手首をナイフで切りつけられていた

そんな中、倉沢淳美さんは、1984年4月8日、16歳の時、ソロデビュー曲「プロフィール」のキャンペーンとして、北海道札幌市でサイン会を開催していたそうですが、

イベント終了後、会場の出入り口でファンを一人ずつ握手で見送っていた際、列に並んでいた男に、突然、隠し持っていたナイフで襲いかかられ、右手首に約6cmの傷を負っています(全治2週間)。

ちなみに、犯人の男は、その場で警備中の警察官により現行犯逮捕され、警察の取り調べで、26歳の会社員と判明したそうですが、

当初、「わけがわからないうちにやってしまった」などと話し、突発的な犯行かと思われたところ、次第に、高部知子さんのファンであることが判明し、

倉沢淳美さんが高部知子さんのスキャンダルを受け、週刊誌の取材に対し、

のぞみ(高部知子さん)の分まで頑張る

と、コメントを出したことが、気に入らず、

これ(高部知子さんの脱退)を機会に、倉沢淳美さんが自分を売り込もうとしていると思い込み、痛い目に遭わせてやろうと、ナイフを隠し持ってサイン会に潜入したとのことでした。

倉沢淳美が17歳の時に「わらべ」は解散

その後、倉沢淳美さんは、1984年12月12日には、「わらべ」として、3枚目のシングル「時計をとめて」をリリースしているのですが、オリコン週間最高6位を記録するも、以前ほどの大ヒットとはならず、

「わらべ」は、1985年3月、番組のリニューアルに伴い、解散となっています。

「時計をとめて」
「時計をとめて」

倉沢淳美は26歳頃に芸能界から遠ざかっていた

また、倉沢淳美さんは、「わらべ」解散後は、ソロでシングルやアルバムをリリースするのですが、売り上げはパッとせず、

1987年9月25日、20歳の時、10枚目のシングル「センチメンタル・ミニ・ロマンス」をリリースしたのを最後に歌手活動を終えると、

萩本欽一さんの勧めもあり、短期大学に進学し、1988年、20歳の時には短期大学を卒業しているのですが、

1993年頃からは、芸能界自体から遠ざかっています。

「センチメンタル・ミニ・ロマンス」
「センチメンタル・ミニ・ロマンス」

倉沢淳美の現在は?

そんな倉沢淳美さんは、1995年、芸能界で活動していた頃から交際していたというオーストラリア人男性と結婚すると、専業主婦となり、その後、オーストラリアに移住し、2011年からは、夫の仕事の都合でUAEドバイへ移住していたそうで、

2013年には、バラエティ番組「世界の日本人妻は見た!」で、ドバイで居住者専用のプライベートビーチがある超高層マンションやリゾートエリアでセレブな生活を送っていることが報じられています。

また、倉沢淳美さんは、ドバイに在住しつつ、タレント活動も再開しているのですが、2023年3月からは、娘のケイナさんも日本で芸能活動をスタートさせており、ケイナさんのインスタグラムやYoutubeチャンネルに、度々、出演しています。

そして、2025年には、自身も公式インスタグラムを開設しているのですが、

「スポーツ報知」の取材に対し、

(芸能界を)辞めたわけじゃないので、海外にいる間も日本に帰って仕事をやったりとか、仕事が入ったら日本に帰ったりを今もやっているんですよ。私にできる仕事はやりますって感じで

と、語っています。

倉沢淳美のディスコグラフィー(ソロ・シングル)

それでは、最後に、倉沢淳美さんのディスコグラフィーをご紹介しましょう。

シングルでは、

  • 1984年「プロフィール」
  • 1984年「ある愛の詩」
    「ある愛の詩」
    「ある愛の詩」
  • 1984年「危険な夢」
  • 1985年「卒業」
  • 1985年「六月の花嫁」
  • 1985年「女の子・秋・色とりどり」
  • 1986年「優しくてもサヨナラ」
    「優しくてもサヨナラ」
    「優しくてもサヨナラ」
  • 1986年「忍ぶれど」
  • 1987年「元気ですか」
  • 1987年「センチメンタル・ミニ・ロマンス」
Sponsored Link

倉沢淳美のディスコグラフィー(ソロ・アルバム)

アルバムでは、

を、リリースしています。

「倉沢淳美の夫との馴れ初めは?現在はドバイに移住しセレブ生活!」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link