1981年、17歳の時、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」の「イモ欽トリオ」のフツオとして大ブレイクを果たすも、人気絶頂だった1982年秋、突如、「イモ欽トリオ」を脱退し、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」も降板した、長江健次(ながえ けんじ)さん。

今回は、そんな長江健次さんの若い頃(「イモ欽トリオ」としてデビュー以降)から現在までの経歴を時系列でご紹介します。

長江健次

「長江健次の生い立ちは?中学時代から素人参加番組に多数出演していた!」からの続き

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長江健次は17歳の時「欽ドン!良い子悪い子普通の子」内ユニット「イモ欽トリオ」としてデビューシングル「ハイスクールララバイ」が160万枚を売り上げる大ヒット

萩本欽一さんの新番組のオーディションで、一旦は不合格となるも、一転、合格となった長江健次さんは、1981年4月6日、高校2年生の時(16歳)、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」で「フツオ役」としてデビューを果たしているのですが、

同年8月5日(17歳)には、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」内で結成された、ヨシオ役の山口良一さん、ワルオ役の西山浩司さんとのユニット「イモ欽トリオ」として、ファーストシングル「ハイスクールララバイ」でレコードデビューすると、

160万枚を売り上げる大ヒットを記録し、長江健次さんもたちまちアイドルとして人気を博しました。

ちなみに、長江健次さんは、この頃の生活について、

僕は学校あるだけだから。(結成が)高校2年生で大阪の高校に通ってたので、欽ドンが(収録が)月曜日なんですけど、金曜日に東京に来て。

土日、その時、ニッポン放送でラジオもやってたからラジオも録って、取材して、月曜日が学校を休んでそのまま収録して。火曜日の朝一で帰って学校行って。欽ちゃん、うるさいから学校休んだりとか

と、語っています。

「ハイスクールララバイ」
「ハイスクールララバイ」

長江健次は18歳の時に「イモ欽トリオ」を脱退し「欽ドン!良い子悪い子普通の子」も降板していた

しかし、そんな人気絶頂の中、長江健次さんは、翌年1982年、18歳(高校3年生)の秋には、大学進学への受験勉強に専念するため、

「イモ欽トリオ」を脱退し、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」も降板しています。

長江健次は18歳の時、大阪で芸能活動を再開すると「突然ガバチョ!」「MBSヤングタウン」などで人気を博していた

その後、長江健次さんは、大阪に戻り、無事、大阪芸術大学に進学しているのですが、大阪で芸能活動を再開すると、大阪での仕事は増え続け、

テレビ番組「突然ガバチョ!」やラジオ番組「MBSヤングタウン」などレギュラー番組7本を抱える売れっ子となっています。

「突然ガバチョ!」
「突然ガバチョ!」より。長江健次さん(左)と笑福亭鶴瓶さん(右)。

ただ、長江健次さんは、大阪で芸能活動を再開するにあたり、萩本欽一さんら東京の番組関係者に事前報告を一切していなかったことから、

そんな”不義理”に、東京の芸能関係者からは厳しく非難されました。

長江健次は19歳の時からソロでの音楽活動も開始していた

また、長江健次さんは、ソロで音楽活動も開始しており、バックバンドを組んでライブハウスツアーを始めると、

1983年11月21日、19歳の時には、伊藤銀次さんプロデュースにより、ファーストアルバム「BOY’S LIFE」をリリース。

「BOY’S LIFE」
「BOY’S LIFE」。

そして、1984年6月21日には、2枚目のアルバム「屋根の上の招待状」をリリースすると、

「屋根の上の招待状」
「屋根の上の招待状」

同年9月には、このアルバムの中の楽曲で4枚目のシングルとなる、「CHAGE and ASKA」のチャゲさん作曲による「涙・BOY」をリリースするほか、

「涙・BOY」
「涙・BOY」

1992年5月25日には、少年時代からの憧れだった角松敏生さんが作詞、作曲、編曲を手掛けた6枚目のシングル「NINETEEN 19」をリリースしています。

「NINETEEN 19」
「NINETEEN 19」

ちなみに、長江健次さんは、音楽活動について、

当時は生意気やったし、売れている自負もあった。イモ欽時代には、お客さんにキャーキャー言われながら厚生年金会館を満員にしたしね。でも自分のバックバンドとは、(『ハイスクールララバイ』など)自分の歌を歌うのは嫌やったんです。

5歳上の姉貴の影響が強かったので、子供の頃は「ビートルズ」なんかも聴いていて、そのせいか山下達郎さん、角松敏生さんみたいな音楽をやりたいと思ってたんです

と、語っています。

長江健次は42歳の時にはトリノオリンピックのスノーボードナショナルチームのコーチに就任していた

しかし、そんな長江健次さんも、やがては人気が落ちて仕事が減り、音楽活動も続けられなくなったそうですが、

そんな中、2006年、42歳の時、トリノオリンピックのスノーボードナショナルチーム(日本代表)のコーチに就任しています。

というのも、長江健次さんは、中学時代からスキーに親しんでいたそうですが、26~27歳の頃、長野を訪れた際、たまたま見かけたスノーボードに挑戦してみたところ、思うように滑ることができず、悔しい思いをしたそうで、

当時はタレントとして中途半端に感じ、「自分に誇れるものを持ちたい」という思いがあった中、スノーボードがオリンピック正式種目(長野五輪)に採用される見通しであることを知り、

選手としてオリンピック出場を目指すべく、その日のうちに道具一式を購入して本格的にスノーボードに打ち込み始めると、全日本選手権に5年連続で出場するほか、長野オリンピックの代表候補にまでなっていたそうで、

その後も日本スノーボード協会との縁が続き、スノーボード協会の部長からコーチ就任要請を受けたのだそうです。

長江健次

ちなみに、「日当5千円で1ヶ月」という低条件だったそうですが、日の丸を背負う経験はなかなかできることではないと、長江健次さんは、事務所の反対を押し切り、トリノ五輪コーチを引き受けたそうですが、

(大会期間中は裏方として選手のサポートやメディア対応を積極的に行ったそうです)

選手からは、

たいした実力もないのにテレビに出ているからコーチになれた

と陰口を言われるなど嫌な思いもしたといいます。

それでも、長江健次さんは、純粋にスノーボードが好きで、五輪を目指すも出場できなかったことは事実だったことから、何を言われても受け入れたそうで、

その後、長江健次さんは、「長江健次スノーボードスクール」を運営し、インストラクターとして後進の指導・育成にあたるほか、ツアー企画などを通じてスノーボードの普及に務めています。

また、五輪コーチとして裏方を経験したことで、表に立つ側だった自分が過去にいかに傲慢(ごうまん)だったかを深く実感したそうで、現在の芸能活動やプロデュース活動に活きているといいます。

長江健次は48歳頃、仕事も貯金もゼロのうえ借金もある中、アルバイトで食いつなぐ日々を送っていた

さておき、スノーボードのコーチのかたわら、芸能活動もしていたという長江健次さんですが、やがて、仕事が全くなくなり、収入も貯金もゼロとなり、アルバイトで食いつなぐ生活を送るようになったそうで、

長江健次さんは、2019年(55歳)頃、

6、7年前(2012年頃)ですよ。全然稼げなくて。もう全くお金もなくて仕事もゼロ、借金もありました。1カ月くらい近所の中華屋さんで『長江健次がいますよ』ってアルバイトさせてもらっていましたよ。

それでお客さんが入るから店も喜ぶし。まあ、色々と借金をしたりもしましたけど、全部返したので、今は楽です

と、語っています。

長江健次は48歳頃、元大関・霧島(陸奥親方)との出会いがきっかけで生活を立て直していた

そして、ついには、明日のご飯にも困るほどになったそうですが、

ある日のこと、お金が全くない中、ゴルフに誘われ、無理をしてなんとか参加すると、そこで元大関・霧島(陸奥親方)と出会ったそうで、

長江健次さんが、陸奥親方に正直にお金がないことを明かすと、

陸奥親方からは、

大丈夫、僕と知り合ったから運気が上がるよ

と、言われ、

実際、その言葉通り、陸奥親方が営業担当のように相撲の打ち上げパーティーやゴルフコンペの司会といった仕事を次々と振ってくれるようになったそうで、

年6回の本場所ごとに仕事へ足を運ぶようになり、陸奥親方との縁を通じて、長江健次さんの運気と生活は、大きく好転していったのだそうです。

長江健次は48歳頃、レゲエバンドのボーカル・KAJAの助言でCDを制作して手売りしていた

また、同じ頃、長江健次さんは、中学時代から憧れていたレゲエバンド「KAJA&JAMMIN」のライブを見に行き、楽屋を訪ねると、

ボーカルのKAJAさんに、

お前もCD作って歌、歌ったらエエねん

と、提案されたそうで、

長江健次さんが、

いやKAJAさん、僕は楽器できんから

と、言うと、

KAJAさんには、

歌えることが楽器や

と、言われ、

長江健次さんは納得したそうで、

KAJAさんにレゲエのオリジナル曲を書いてもらって、CDを制作し、自身で手売りし始めたそうで、KAJAさんの提案で東京と大阪でライブも開催したのだそうです。

(観客は6人だったそうです)

長江健次は48歳の時から「長江健次CAFE」を始めていた

そして、かつて満員(300人)にした思い出の神戸の「チキンジョージ」でも再びライブを開催することが出来ると、当時のスタッフにも覚えてもらっていたほか、客数は30人ほどだったそうですが、着実に歌う場を広げていったそうで、

2012年からは、ライブ「長江健次CAFE」を開催すると、

長江健次さんいわく、

最初はチキンジョージで5日間の開催でした。芳野藤丸さん、中村繁之さん、長谷直美さんらがゲストに来てくれました。

2年目にはスターダストレビューの根本要さんらが来てくれて7日間。4年目には10日間に拡大しました。

10年目には東京も合わせて20日間のライブを手打ち(自主興行)でやったんです

と、語っており、

久保田洋司さん、伊藤銀次さん、杉真理さん、原田真二さん、野村義男さん、佐藤竹善さん、うじきつよしさん、井上昌己さん、村上PONTA秀一さん、仙波清彦さん、杉山清隆さん、角松敏生さん、「サザンオールスターズ」のドラムスの松田弘さんといった、錚々(そうそう)たるミュージシャンがゲスト出演してくれるようになったといいます。

また、2023年には、40年来の親交がある「CHAGE&ASKA」のASKAさんや、大阪で芸能活動を再開した頃に「突然ガバチョ!」で一緒に司会を務めていた笑福亭鶴瓶さんも出てくれたそうで、

鶴瓶さんは、長い間、不義理していたにもかかわらず、再会した際、

お前はな、テレビ番組のMCとして番組を仕切るような位置におらんとあかん人やったんやで。俺とかさんまとか使うてエエねん

と、声をかけてくれたといいます。

長江健次

長江健次は52歳の時にカバーアルバム「Hito no Uta」をリリース

こうして、ますます音楽への意欲が沸いた長江健次さんは、2016年には、カバーアルバム「Hito no Uta」をリリースしています。

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長江健次の現在は?

そんな長江健次さんは、自らイベントを動かしてきた経験を活かし、現在は、自身が所属する「イモ欽トリオ」のプロデュース(ギャラやスケジュールの管理)も務めているそうで、

山口良一さん(「イモ欽トリオ」のヨシオ)の古希記念全国ツアーや、新EP(ミニアルバム)「SNACK KYOKO」の発売を手掛けるほか、2026年には、デビュー45周年記念ツアーも手掛けており、

当時は叶わなかった全国のファンへの恩返しとして精力的に活動を続けているといいます。

(「イモ欽トリオ」は2008年11月に一夜限りで復活すると、その後、2015年から本格的に再始動しています)

イモ欽トリオ
「イモ欽トリオ」より。(左から)山口良一さん、長江健次さん、西山浩司さん。

「長江健次は萩本欽一に不義理し絶縁状態だった?現在は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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