「大都会 PARTII」「大都会 PARTIII」「西部警察」シリーズなどのテレビドラマで主演を務め、アクションスターとして絶大な人気を博した、俳優の渡哲也(わたり てつや)さん。今回は、そんな渡さんの生い立ちや、華々しいデビューについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

渡さんは、1941年12月28日生まれ、
兵庫県淡路島のご出身(出生地は島根県能義郡安来町(現・安来市))、

身長180センチ、

血液型はB型、

学歴は、
淡路町立石屋小学校
⇒(兵庫県)三田学園中学校
⇒(兵庫県)三田学園高校
⇒青山学院大学経済学部卒業

趣味・特技は、
ゴルフ、空手(2段)、柔道(初段)、焚き火、

ちなみに、本名は「渡瀬 道彦(わたせ みちひこ)」です。

生い立ち

渡さんのお父さんは、広島県呉市の軍需工場などを転々とした後、「日立」の安来工場に勤務していた時、広島県出身の渡さんのお母さんと結婚。その後、渡さんが誕生します。

そして、戦時中の1943年、渡さんが2歳の時、お父さんは、任地の「日立」呉工場を退職。その後はどうされていたか不明ですが、渡さんが小学校1年生の時には、実家がある兵庫県津名郡淡路町(現・淡路市)で洋品店を開店されたそうです。

高校時代は石原裕次郎に憧れる不良少年

さて、渡さんは、1954年に小学校を卒業すると、「団体生活で独立心を養うように」という、お父さんの考えにより、全寮制の三田学園中学校に入学。中学卒業後は、そのまま三田学園高校に進学されます。

ちなみに、高校時代は、よくケンカをして停学になるなど、やんちゃだったようですが、

渡さんは、後に、学校生活を振り返り、

母校での思い出のほとんどは、寮生活にあります。悪童たちが、学び、鍛え、同じ釜の飯を食べと文字通り寝食を共にした暮らしでした。

仲間たちとの連帯感や独立心、団体生活の規律などを身体で覚えていった6年間でした。時には、仲間たちと三田の街なかへ遊びに行ったことも懐かしく思い出されます。

と、語っておられました。

また、高校時代は、石原裕次郎さんに憧れ、裕次郎さんの映画を観に1時間以上も電車に乗って神戸に行ったこともあったほか、友達とお金を出し合って、裕次郎さんのファッションを真似た服を買い、交代で着ていたこともあったそうです。

スカウトで芸能界入り

そんな渡さんは、高校卒業後は、青山学院大学に通うために上京すると、弟の渡瀬恒彦さんと新宿区柏木(現・北新宿)で下宿。

また、ともに空手部に所属していたのですが、渡瀬さんと空手部の仲間達が、浅丘ルリ子さん主演100本記念映画の、相手役となる新人「ミスターX」(日活)の募集に、渡さんの書類を内緒で応募。

それを知った渡さんは激怒したそうですが、就職を希望していた「日本航空」の整備士社員の採用試験が不合格だったことや、

友達から、

撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない

と言われたことから、「日活」撮影所を訪問すると、そこでスカウトされたそうで、1964年、「日活」へ入られたのでした。

デビュー作「あばれ騎士道」で新人賞を受賞

すると、渡さんは、そのワイルドなルックスから、次世代のスター候補として破格の扱いを受けて、大々的に売り出され、翌年の1965年には、映画「あばれ騎士道」でいきなり主演デビュー。(「エランドール賞新人賞」を受賞されています。)


「あばれ騎士道」より。(左から)松原智恵子さん、宍戸錠さん、渡さん。

こうして、渡さんは、「日活」の猛プッシュのもと、華々しく、芸能生活のスタートを切ったのでした。

(「日活」は、この時すでに斜陽期に差し掛かっていたため、高橋英樹さんに続くスターを輩出したいと、渡さんを猛プッシュしたのでした。)

日活のアクション・スターへ

そして、続く「青春の裁き」(1965年)でも主演を務めると、得意の空手を生かしたアクションや鍛え上げた肉体など、それまでの映画俳優には見られなかった新鮮な魅力で、たちまち「日活」のトップスターに。

また、この年には、

「真紅な海が呼んでるぜ」(1965.7.3)
「泣かせるぜ」(1965.10.1)
「拳銃無宿・脱獄のブルース」(1965.12.4)
「赤い谷間の決斗」(1965.12.29)
「星と俺とで決めたんだ」(1965.8.14)


「真紅な海が呼んでるぜ」より。

と、続けざまに映画への出演を重ねると、

翌年の1966年には、映画「東京流れ者」で、見事なアクションシーンをこなしたうえ、主題歌「東京流れ者」も歌い、


「東京流れ者」

吉永小百合さんとの初共演映画「愛と死の記録」では、「第17回ブルーリボン賞新人賞」を受賞。

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「石原裕次郎2世」と呼ばれる

また、渡さんは、「裕次郎2世」と言われたことから、リバイバル版の「嵐を呼ぶ男」で主演を務めると、ますます人気が増し、

1968~1969年には、

「無頼より 大幹部」(1968.1.13)
「大幹部・無頼」(1968.4.28)
「大幹部・無頼非情」(1968.8.1)
「無頼・人斬り五郎」(1968.11.2)
「無頼・黒ヒ首」(1968.12.28)
「無頼・殺せ」(1969.3.15)


「無頼より・大幹部」より。渡さんと松原智恵子さん。

と、「無頼」シリーズ6作品にも出演。

渡さんは、このシリーズ中もアクションを披露し、一躍、「日活」ニューアクション時代のスターへと登りつめたのでした。

「渡哲也が倒産寸前の石原プロに入った理由がカッコ良すぎる!」に続く

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