テレビドラマ「太陽にほえろ!」のジーパン刑事役で、一躍スターとなった、俳優の松田優作(まつだ ゆうさく)さん。その後は、コミカルな役から鬼気迫る役まで幅広い演技を披露し、演技派俳優の地位を確立されるも、1989年、志半ばで病に倒れ、他界されています。

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出身は?身長は?本名は?

松田さんは、1949年9月21日生まれ、
山口県下関市のご出身、

身長183センチ、
(公称185センチですが、妻の美由紀さんの証言では183センチ)

血液型はA型、

学歴は、
下関市立第一高等学校 (現・山口県立下関中等教育学校)中退
⇒シーサイド高校(カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市)中退
⇒私立豊南高等学校夜間部普通科編入
⇒関東学院大学文学部中退

ちなみに、松田優作は本名です。
(帰化して金優作から松田優作に改名されています)

生い立ち

松田さんは、在日韓国人であるお母さんと日本人のお父さんの間に生まれるのですが、お父さんは、郷里である長崎に妻子がおり、お母さんが松田さんを妊娠していることを知ると、長崎に逃げて帰ったと言われています。

(お母さんは、お父さんに妻子がいることを知らなかったそうです)

また、松田さんには、仲の良いお兄さんが二人いたのですが、そのお兄さんたちは、お母さんが死別した、前のご主人との子どもだったそうで、松田さんは、1964年、15歳の時、自らの出自を知ると、次第に孤独を感じるようになっていったのでした。

アメリカで弁護士を目指すも挫折

その後、松田さんは、1967年、高校2年生の時、お母さんから、アメリカで弁護士になるように言われ、不本意ながら高校を中退。

アメリカ国籍を取得するため、アメリカに住んでいた叔母夫婦を頼って渡米し、現地の高校に入学されます。

しかし、言葉の違いなどから、現地での生活に馴染めず、ほどなくして、ヒッピーのような生活を送るように。

そして、翌年の1968年には、アメリカ暮らしに挫折し、帰国。お兄さんの家に居候しながら、夜間高校に編入し、1969年、無事卒業されています。

「六月劇場」の研究生に

そんな松田さんは、高校卒業後、高校時代からの友人である重井修二さんと、アルバイトに明け暮れる日々を送られるのですが、

重井さんのお兄さんが、小演劇グループ「六月劇場」の関係者だったことから、テレビドラマのエキストラを経験。

この頃、松田さんは、「六月劇場」の主宰者である、岸田森さんに憧れ、研究生として入団されています。

黒澤明に弟子入りを拒否される

こうして、松田さんは、「六月劇場」の研究生として、修行を積む日々を送られていたのですが、

1970年、いきなり、黒澤明監督の自宅を訪れ、3日間座り込んで、弟子入りを迫ります。

しかし、一度も黒澤監督に会うことができず、追い返されてしまったそうで、松田さんは、劇団仲間に、

俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが、有名になっても黒澤監督の映画にだけは、決して出んからな。

と、語っておられたそうです。

また、この頃、松田さんは、新宿のBAR「ロック」でアルバイトを始められ、客として来ていた、劇団「文学座」村野武範さんと知り合われるのですが、

村野さんは、松田さんについて、

「いずれどこからか出てくる男だと感じた」

と、語っておられたそうです。

「新演劇人クラブ・マールイ」に入団

そして、翌年の1971年には、劇団「文学座」の入所試験を受けられるも、一次の筆記試験で不合格。

松田さんは、その後も、手当たり次第に劇団の試験を受けられると、同年4月、金子信雄さん主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に生徒として入団。1972年には、卒業公演「女房を寝取られた亭主の話」での演技が認められ、研究生となられるのですが、

再び、劇団「文学座」の試験を受けられたそうで、今度は見事合格。松田さんは、「文学座付属演技研究所十二期生」となられたのでした。

「太陽にほえろ!」で一躍人気スターに

また、同年9月には、突如、テレビドラマ「太陽にほえろ!」で、ジーパン刑事こと、柴田純役に抜擢。


「太陽にほえろ!」より。

というのも、「太陽にほえろ!」のプロデューサーであった岡田晋吉さんが、同番組を降板したがっていた、萩原健一さんの後を継ぐ刑事役を探していることを、友人である、「文学座」の村野さんが知り、松田さんを推薦されたのでした。

こうして、1973年7月、松田さんは、「太陽にほえろ!」で、ジーパン刑事として初登場すると、瞬く間に、スターダムへと駆け登って行かれたのでした。

殉職シーンが伝説に

この「太陽にほえろ!」は高視聴率を記録し、松田さんの人気も頂点に達するのですが、
芝居の情熱を変わらず持ち続けていた松田さんは、次第に、安易な番組作りに嫌気が差し始め、降板を考えるように。

そして、1974年、ついに、ジーパン刑事は殉職。


「太陽にほえろ!」より。ジーパン刑事の殉職シーン。

銃弾で撃たれ、血のついた手の平を呆然と見つめながら、

「なんじゃこりゃぁあ」

と叫ぶシーンは、名シーンとして現在も語り継がれていますね。

ちなみに、この叫び声は、松田さんのアドリブだったそうで、松田さんにとっては、安易なドラマだったとはいえ、最後まで徹底した役作りは、見事としか言いようがありませんね。

暴力事件で謹慎

松田さんは、その後も、

1974年「赤い迷路」
1975年「俺たちの勲章」「大都会」


「赤い迷路」より。松田さんと山口百恵さん。

などのテレビドラマに出演し、順調にキャリアを積まれるのですが、

1976年1月、鹿児島県で行われた、「俺達の勲章」の打ち上げの後、19歳の予備校生に、全治3ヶ月の重傷を負わせ、逮捕されてしまいます。

これにより、松田さんは、出演が予定されていた4月からの新番組「隠し目付参上」のクランクイン寸前に降ろされ、謹慎処分となっています。

(予備校生とはその後、示談が成立しています)

復帰~新しい境地へ~

そして、1976年5月から始まった、映画「暴力教室」の撮影で復帰されると、


「暴力教室」より。

テレビドラマ「夫婦旅日記 さらば浪人」などの、ゲスト出演を経て、翌年の1977年には、「大都会 PARTII」で本格的にテレビドラマにも復帰。


「大都会 PARTII」より。松田さんと、
石原裕次郎さん、渡哲也さん。

その後は、
1978年「最も危険な遊戯」
1979年「乱れからくり」
     「俺たちに墓はない」
     「蘇える金狼」


「蘇える金狼」より。

と、立て続けに映画で主演を務められ、再び、順調にキャリアを積んでいかれます。

また、同年、出演されたテレビドラマ「探偵物語」では、口数が多いコミカルな演技を披露され、これまでの、ハードボイルドなイメージを一新。新境地を開拓されています。


「探偵物語」より。

演技派俳優の道へ

さらに、1980年の、映画「野獣死すべし」では、主人公、伊達邦彦役を演じるにあたり、8キロの減量と奥歯4本の抜歯を断行。


「野獣死すべし」より。

それだけではなく、役柄上、身長が高すぎることから、

可能なら足を5cm程切断したい

と、真剣に語っておられたこともあったそうで、松田さんの鬼気迫る演技は、役者魂を感じさせる作品となっています。

松田さんは、この作品の出演を境に演技派俳優への道を模索され、1981年には、泉鏡花原作の文学作品「陽炎座」や、少年愛的な要素を含む「ヨコハマBJブルース」
などに出演。


「陽炎座」より。松田さんと大楠道代さん。

1988年には、「嵐が丘」「華の乱」など、文芸大作にも積極的に出演され、その演技は高い評価を得られています。

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死去

しかし、そんな松田さんを病が襲います。

1989年、かねてからの夢だった、ハリウッド映画「ブラック・レイン」に出演が決定するも、撮影中に体の異変を感じ、病院で診察を受けると、「膀胱ガン」であることが判明。

(詳しいことは分かりませんでしたが、その2年前に、松田さんは「膀胱ガン」のため、手術を受けておられたそうなので、再発したようです。)

それでも、松田さんは、引き続き、撮影に復帰しようとすると、医師が止めたそうですが、

今やっている映画は、僕の生涯をかけた作品なんです。最後までやらせて下さい。それよりもずっと血尿が止まらないんです。

と訴えられ、撮影を続行。

その後、同年10月、映画「ブラック・レイン」が公開されると、日本だけではなく、アメリカ、ヨーロッパと世界的な大ヒットを記録。

松田さんは、その成功を見届け、同年11月、入院先の病院で、40歳という若さで亡くなったのでした。


「ブラック・レイン」より。

さて、いかがでしたでしょうか?

まるで、映画のような、波乱万丈の人生を送られた松田さん。

作品一作一作に魂を燃やし、映画にすべてを賭けた松田さんの生き様は、没後30年以上経った今でも、多くのファンを虜にしています。

もう、松田さんの新作は見ることができませんが、松田さんの魂は永遠に出演作品の中で生き続け、私達を虜にし続けることでしょう。

ご冥福をお祈り致します。

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