1949年、「河童ブギウギ」でレコードデビューすると、以降、「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分」「港町十三番地」「柔」「悲しい酒」「おまえに惚れた」「愛燦燦(あいさんさん)」「みだれ髪」「川の流れのように」などのヒットを連発し、40年以上に渡って日本歌謡界の第一線で活躍した、美空ひばり(みそら ひばり)さん。

今回は、そんな美空ひばりさんの若い頃からの代表曲(ヒット曲)や経歴を、デビューから時系列でまとめてみました。

美空ひばり

「美空ひばりの生い立ちは?幼少期から天才少女!10歳のバス事故で歌手になる決意をしていた!」からの続き

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美空ひばりが10代の時は「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分」が大ヒット

11歳の時に川田義雄(後に川田晴久)に見出され「川田一座」に加入

美空ひばりさんは、1948年、11歳の時、人気歌手だった小唄勝太郎さんの舞台(横浜国際劇場)に子役(小唄勝太郎さんに花束を渡す役)として出演すると、

この時、出演していたヴォードヴィリアン(舞台で踊り、歌、手品などショーをする人)の川田義雄(後に川田晴久)さんと知り合い、その後、川田義雄さんにその才能を見いだされ、「川田一座」の巡業に加わったそうで、

美空ひばりさんは、川田義雄さんから大変可愛がられ、大きな影響を受けたようで、専門家の声紋鑑定によると、二人の節回しや歌い方は非常に酷似していたといいます。

ちなみに、美空ひばりさんは、後に、

師匠といえるのは父親と川田先生だけ

と、語っています。

美空ひばり
1950年7月、アメリカ・ロサンゼルスでテレビに出演し、司会のアンクル・グラニーさんに抱き上げられ歌う美空ひばりさんと伴奏の川田晴久さん。

笠置シヅ子のモノマネで”ベビー笠置”と呼ばれ人気を博していた

そんな美空ひばりさんは、「川田一座」の公演で、当時のスター歌手・笠置シヅ子さんのモノマネをすると、拍手喝采を浴び、”ベビー笠置”と呼ばれるほどになったそうですが、

その半面、依然、世間では、”少女が大人の恋愛の歌を歌うことへの反発”があったようで、

詩人で作詞家のサトウハチローさんからは、

近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ

と、批判されています。

11歳の時には笠置シヅ子の嫌がらせがきっかけで「のど自慢狂時代」で映画デビューしていた

そんな美空ひばりさんは、1949年1月、11歳の時には、歌手・灰田勝彦さん主演の日劇レビュー「ラヴ・パレード」で、ブギ(boogie-woogieの略で、ピアノによるブルースの演奏形式)を歌う少女を演じることになったため、笠置シヅ子さんの持ち歌である「ヘイヘイブギ」を歌う許可を得たそうですが・・・

(そのため、美空ひばりさんはこの歌の作曲者・服部良一さんのもとに3日間通ってレッスンを受けていたそうです)

日劇近くの有楽座で公演中だった笠置シヅ子さんは、初日の幕が開く5分前に、突然、「ヘイヘイブギ」の使用を禁止(嫌がらせ)してきたといいます。

そんな中、(その場面と歌をカットする訳にもいかず)困り果てた関係者が、有楽座へ電話して笠置シヅ子さんに事情を説明すると、笠置シヅ子さんは、(態度を軟化させ)「東京ブギウギ」なら歌ってもいいと許可を出したそうですが、

「ヘイヘイブギ」を歌うつもりで「ヘイヘイブギ」の練習しかしていなかった美空ひばりさんは、「東京ブギウギ」は、バンドと音合わせさえしていなかったため、出だしをトチってしまい、「トオキョ」が言えず、「ブギウギ~」の部分から歌い出すことになってしまったのだそうです。

ただ、子供(美空ひばりさん)が「東京ブギウギ」を歌い踊る姿は観客にウケたそうで、美空ひばりさんは、同年3月には、東横映画「のど自慢狂時代」で、ブギウギを歌う少女の役で映画デビューしたのでした。

12歳の時に「河童ブギウギ」でレコードデビュー

そんな美空ひばりさんは、1949年6月、12歳の時には、映画「踊る竜宮城」に出演し、その主題歌「河童ブギウギ」でレコードデビューも果たしています。

「踊る竜宮城」
「河童ブギウギ」を歌唱する美空ひばりさん。

12歳の時にシングル「悲しき口笛」が45万枚を売り上げる大ヒットを記録

そして、1949年9月、12歳の時には、映画「悲しき口笛」で主演に抜擢されると、この映画は大ヒットを記録し、さらに、同名主題歌「悲しき口笛」も45万枚を売上げ、美空ひばりさんは、一躍、国民的スターとなったのでした。

「悲しき口笛」
「悲しき口笛」より。

(この時の「シルクハットに燕尾服」の姿は、美空ひばりさんの幼い時の姿として有名ですが、アメリカの「ライフ」誌にも掲載されたといいます)


「悲しき口笛」より。

13歳の時にシングル「東京キッド」が大ヒット

そんな美空ひばりさんは、1950年、13歳の時には、映画「東京キッド」で、川田義雄(後に川田晴久)さんとともに主演を務めると、またしても、映画とともに同名主題歌「東京キッド」も大ヒットとなっています。

(美空ひばりさんは、この映画で天才子役と絶賛されています)

「東京キッド」
「東京キッド」より。榎本健一さんと美空ひばりさん。


「東京キッド」より。右の二人が美空ひばりさんと川田義雄さん。

15歳の時にシングル「リンゴ追分」が70万枚を売り上げる大ヒット

そして、1952年、15歳の時には、映画「リンゴ園の少女」で主演を務めると、主題歌「リンゴ追分」は、当時、戦後最大の70万枚の大ヒットを記録したのでした。


「リンゴ園の少女」より。

16歳の時に映画「お嬢さん社長」へのきっかけで”御嬢”と呼ばれるようになっていた

また、美空ひばりさんは、1953年、16歳の時には、映画「お嬢さん社長」で主演を務めると、お母さんから呼ばれた「お嬢」が、その後の美空さんのニックネームとして定着し、親しまれるようになっています。

「お嬢さん社長」
「お嬢さん社長」より。右端が美空ひばりさん。

18歳の時に映画「ジャンケン娘」に出演し、江利チエミ、雪村いづみと共に「三人娘」として人気を博していた

そして、1954年、17歳の時には、「ひばりのマドロスさん」で「第5回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たすと、

(以降、1972年まで通算17回出場し、そのうち13回トリを務めています)

1955年、18歳の時には、江利チエミさん、雪村いづみさんとともに、東宝映画「ジャンケン娘」に出演したことがきっかけで、「三人娘」として、アイドル的な人気を博したのでした。

「ジャンケン娘」
「ジャンケン娘」より。(左から)雪村いずみさん、江利チエミさん、美空ひばりさん。

美空ひばりが20代の時は小林旭と結婚し2年で離婚するも「柔」が190万枚を売り上げる大ヒット

23歳の時に「哀愁波止場」で「第2回日本レコード大賞歌唱賞」を受賞

そんな美空ひばりさんは、1960年、23歳の時には、「哀愁波止場」で「第2回日本レコード大賞歌唱賞」を受賞すると、”歌謡界の女王”と称されるようになり、名実ともに、歌謡界のトップスター歌手としての地位を不動のものにしています。

「哀愁波止場」
「哀愁波止場」

25歳の時に小林旭と結婚するも2年で離婚

そんな中、プライベートでは、1961年秋、雑誌の対談で知り合った小林旭さんと、1962年、25歳の時に挙式し、幸せな日々を送っていたそうですが、

もともと、美空ひばりさんのお母さんがこの結婚に反対で、何かと二人の生活に介入していたそうで、やがては、お母さんに振り回されて結婚生活もままならなくなっていったといいます。

また、歌うことへの未練が断ち切れず、セーブしていた仕事を徐々に再開した美空ひばりさんと、奥さんとして家庭を守ってほしい小林旭さんの間でも、次第にすれ違いが生じるようになったそうで、1964年、美空ひばりさんと小林旭さんは離婚したのでした。

美空ひばりと小林旭
美空ひばりさんと小林旭さん。

離婚後の27歳の時にリリースしたシングル「柔」は190万枚を売り上げる大ヒット

ただ、美空ひばりさんは、離婚直後の1964年11月20日、27歳の時、シングル「柔」をリリースすると、売上190万枚という自身最大のヒットを記録するほか、


「柔」

その後も、

  • 1966年(29歳)「悲しい酒」
  • 1967年(30歳)「芸道一代」
  • 1967年(30歳)「真赤な太陽」

と、次々と大ヒットを飛ばしており、仕事の方では健在ぶりを示しています。

美空ひばりは36歳の時には実弟が暴力団員と発覚し、自身も山口組組長との関係が問題視され激しいバッシングに遭っていた

こうして、芸能生活は順風満帆だった美空ひばりさんですが、1973年、36歳の時には、実弟のかとう哲也さんが三代目山口組系益田組の舎弟頭であることが発覚。


かとう哲也さん

このことをきっかけに、美空ひばりさんと、美空ひばりさんの芸能界の父親的存在である山口組の田岡一雄組長の関係も問題視されるようになり、

美空ひばりさんは、激しいバッシングに遭うほか、全国の公民館や市民ホールから締め出されたそうで、この年の「NHK紅白歌合戦」の出場も辞退したのでした。

ちなみに、その後は、NHKから出演の依頼が来ても、ずっと断り続けたそうで、以降、美空ひばりさんが「紅白歌合戦」に復帰することはなかったのでした。

美空ひばりが40代の頃は原因不明の腰痛に苦しめられるようになっていた

44歳~47歳の時には度重なる不幸が続き、悲しみと寂しさを紛らわせるため酒量が増えていった

そんな美空ひばりさんは、その後は、ヒット曲にも恵まれず、当時の人気シンガーソングライターだった、来生たかおさん、小椋佳さん、イルカさんなどに、楽曲提供を依頼し、新境地を開拓するのですが、ヒットとはならず、

そのうえ、

  • 1981年(44歳)には、母親が「転移性脳腫瘍」により他界
  • 1981年(44歳)には、芸能界の父親的存在だった田岡一雄組長が急性心不全により他界
  • 1982年(45歳)には、「三人娘」以来、大親友だった江利チエミさんが45歳で急死
  • 1984年(47歳)には、親交のあった大川橋蔵さんが肝臓がんにより他界
  • 1984年(47歳)には、実弟である、かとう哲也さんと香山武彦さんが、ともに42歳という若さで心不全により他界

と、身近な人が次々に亡くなるという不幸に見舞われ、悲しみと寂しさを紛らわせるため、次第にお酒の量が増えていったといいます。

48歳の時には原因不明の腰痛に苦しめられるようになっていた

そして、美空ひばりさん自身も、1985年5月、48歳の時には、自身の誕生日記念ゴルフコンペでプレーした際に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったそうで、これをきっかけに、その頃から原因不明の腰痛に苦しめられるようになり、痛みをこらえて公演を続けていたといいます。

そして、1987年、全国ツアーの四国公演中、耐えられないほどの激痛に襲われると、その後もなんとか仕事をこなしていたものの、ついに、同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、病院で検査を受けたところ、慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症が判明し、緊急入院。

同年8月3日、3ヶ月の入院の末、体調が回復しないまま退院すると、その後も病は治癒せず、苦しい日々を送ったのだそうです。

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美空ひばりの死因は間質性肺炎による呼吸不全

51歳の時には体調が優れぬなか不死鳥コンサートで39曲を熱唱していた

そして、1988年、51歳の時には、体調が思わしくないまま(肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、また、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされていたそうです)、東京ドーム復帰公演「不死鳥~翔ぶ新しき空へ向かって」を開催すると、

不死鳥コンサート
美空ひばりさんの「不死鳥コンサート」より。

全39曲を熱唱し、39曲目の「人生の一路」を歌い終えると、ステージから客席後方まで伸びた、約100メートルある花道を、ゆっくりと観客に手を振りながら一人で歩いたそうですが、実は、全身激痛に襲われていたといいます。

(一般の人であれば、歌うことはおろか、立つことも困難なほどの病状だったそうです)


不死鳥コンサートで「人生の一路」を歌い終え、花道を歩く美空ひばりさん。

52歳の時に間質性肺炎による呼吸不全により死去

それでも、美空ひばりさんは、体調が急激に悪化していく中、翌年の1989年2月には、周囲の猛反対を押し切って、福岡を皮切りに全国ツアーをスタートしたそうですが、

1989年には入退院を繰り返すようになり、ついに、同年6月24日、間質性肺炎による呼吸不全により、52歳の若さで帰らぬ人となったのでした。

さて、いかがでしたでしょうか?

昭和の大スターとして、戦後の日本人に夢と希望を与えた美空ひばりさん。

近年は、「歌姫」という言葉が乱用されていますが、美空ひばりさんこそが、真の歌姫でありエンターテイナー。

美空ひばりさんの魂のこもった歌声は、これからも永遠に聴く者の心を打つことでしょう。

お読みいただきありがとうございました

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