1947年、宝塚音楽学校に入学し、翌年の1948年、「宝塚歌劇団」第35期生となると、男役トップスターとして人気を博し、華麗な舞台で戦後の人々を魅了して、連日、満員御礼となるなど、宝塚に多大な貢献をした、寿美花代(すみ はなよ)さん。

そんな寿美花代さんは、少女時代、勉強が嫌いだったことから、何か遊んで暮らせることはないかと考えていたところ、宝塚音楽学校が生徒を募集している新聞広告を見て宝塚音楽学校を受験し、見事、合格したといいます。

今回は、寿美花代さんの、生い立ち(幼少期)から「宝塚歌劇団」時代をご紹介します。

寿美花代

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寿美花代のプロフィール

寿美花代さんは、1932年2月6日生まれ、
兵庫県西宮市の出身、

身長162センチ、

靴のサイズは23.5センチ、

血液型はAB型、

学歴は、
芦屋高等女学校(現・芦屋学園中学校・高等学校)、

趣味は、海外旅行、絵を描くこと、

ちなみに、本名は「高嶋節子」(たかしま せつこ)、旧姓は「松平」で、松平定信(徳川吉宗の孫)の末裔だそうです。

寿美花代が幼い頃は外国人と間違えられて度々石をぶつけられていた

寿美花代さんは、日産自動車に勤務する松平八郎さんと岐阜県高山市出身の大坪つゆさんの長女として誕生すると、幼い頃から、目鼻立ちがはっきりしていたため、外国人と間違えられ、道を歩いていると、たびたび、石をぶつけられたそうで、

寿美花代さんは、

敵国の人間だって思われたの

と、語っています。

寿美花代が15歳で宝塚音楽学校に入学したのは勉強が嫌いだったから

寿美花代さんは、戦争中だった13歳の時には、岐阜県下呂市にある親族のところに縁故疎開していたそうですが、終戦後は、実家のある西宮に戻ったそうです。

ただ、学校では勉強についていけなかったことから、勉強が嫌になり、何か、遊んで暮らせることはないかと思案していたところ、新聞の「寳塚(宝塚)生徒募集」という小さな広告が目に入り、

あ、これだ!これなら遊んで暮らせる。

と、思い、1947年、15歳の時に、「宝塚音楽学校」を受験すると、見事合格したそうで、

(ただ、成績は最後から2番目だったそうです)

寿美花代さんは、

あんまり勉強はでけんし、何となく映画女優になりとうて、近道や思うて

と、語っています。

(歌を歌うと「国賊」と言われた時代だったため、寿美花代さんは、この新聞広告を見るまでは宝塚を知らなかったそうです)

寿美花代が15歳で宝塚音楽学校に入った当初は歌もダンスも全くの素人だった

こうして、「宝塚音楽学校」に入学した寿美花代さんですが、他の生徒たちは、日舞の先生の娘だったり、ダンスの先生の娘だったりと、ダンスや歌の下地のある人が多かった中、寿美花代さんは全くの素人だったことから、

ある日、日舞の稽古で、先生から手ぬぐいを持ってくるように言われ、それなら、うちにある、一番良い手ぬぐいを持っていこうと、ヒラヒラと飾りのついたバスタオルを持っていくと、先生に激怒されたそうで、罰として1時間立たされたこともあったそうです。

また、寿美花代さんは、終電まで一人で残り、バレエの練習をしていたそうですが、戦争の影響がまだ尾を引いていた時代、部屋の電気をつけられなかったそうで、ろうそくの炎だけで練習していたことが、何より一番辛かったそうです。

寿美花代は16歳で宝塚歌劇団に入団すると初舞台で失敗するもかえって名前が売れていた

それでも、そんな努力が実り、寿美花代さんは、翌年の1948年には「宝塚歌劇団」に入団し、「春のをどり」で初舞台を踏んだそうですが・・・

銀橋(ぎんきょう)と呼ばれるオーケストラボックスと客席の間にある最前列の細長いステージを大勢でマラカスを振りながら渡っていると、なんと、足を踏みはずして客席に転落してしまったのだそうです。

すると、そこは進駐軍席だったそうで、寿美花代さんがオロオロしていると、軍人に抱え上げられたそうで、みんなが去った後の銀橋で、とっさにポーズをとってサーッと下がると、場内は沸き、このことで、寿美花代さんの名前は一気に知れ渡ったのだそうです。

ちなみに、寿美花代さんは、後に、

失敗がスターへの道につながっていたのね

と、語っています。

寿美花代は19歳の時には宝塚歌劇団の舞台「蜜蜂の冒険」でスターの代役に抜擢されていた

そして、1951年、19歳の時には、舞台「蜜蜂の冒険」で、突然、スター女優の代役に抜擢されるという、幸運に恵まれたそうで、スターの代役として、前の列でダンスを披露すると、注目を集めたのだそうです。

(この舞台には、3人のスターがいたそうですが、そのうちの1人が風邪で休み、その人の代役も決まっていたそうですが、顔が大きく、かつらが入らなかったことから、急遽、寿美花代さんのいたラインダンスのメンバーが並ばされ、一人づつかつらをかぶらされていったところ、寿美花代さんがぴったりだったのだそうです)

寿美花代は20歳の時には宝塚歌劇団の舞台「猿飛佐助」の主演でブレイク

そんな寿美花代さんは、翌年の1952年、20歳の時には、「猿飛佐助」で初の主演に抜擢されると、たちまちブレイクを果たし、ブロマイドの売上1位を記録する人気を誇ります。

寿美花代は21歳の時には宝塚歌劇団の舞台「アンニー・ローリー」で「宝塚新人演技賞」を受賞

また、寿美花代さんは、1953年、21歳の時には、「アンニー・ローリー」で、「宝塚新人演技賞」を受賞、

1958年、26歳の時には、「三つのワルツ」で、淀かおるさん、大路三千緒さんとともに、「芸術祭奨励賞(大衆芸能の部)」を受賞するなど、人気だけでなく実力も認められていったのでした。

寿美花代
宝塚歌劇団時代の寿美花代さん。

寿美花代は28歳の時には宝塚歌劇団の舞台「華麗なる千拍子」で初の女役を務めると、網タイツ姿で連日満員御礼となっていた

その後も、寿美花代さんの快進撃は続き、1960年、28歳の時には、「華麗なる千拍子」で、「パイナップルの女王」に扮し、それまでの男役から一転、初の女役を務めると、

(体の線に沿った衣装に、網タイツ姿の脚線美を披露したそうです)

舞台は連日満員御礼で、定員2476人の東京宝塚劇場での千秋楽には、なんと3100人以上が詰めかけたそうで、寿美花代さんの人気は絶頂を極めたのでした。

「華麗なる千拍子」の寿美花代
「華麗なる千拍子」より。「パイナップルの女王」に扮する寿美花代さん。

ちなみに、寿美花代さんは、1960年7月31日、読売新聞の取材に対し、

女役になる以上は男性を悩殺するような立派な“女”になるよう努力します

と、意気込みを語っているのですが、

実は、あの衣装は嫌だったそうで、寿美花代さんは、

あの衣装が嫌で嫌で稽古中にむくれて1時間座り込んだの。腰回りの羽を増やしてもらって、足を隠すようにくねくねと歩いたら色っぽいって。おかげで男性客がいっぱい来てくれました

とも、語っています。

また、寿美花代さんは、劇中、ジャズを見事に歌い上げ、「芸術祭賞」「テアトロン賞」を受賞しているのですが、寿美花代さんは、ジャズのリズムの取り方を勉強するため、当時、ジャズ歌手として人気を博していた、江利チエミさんの楽屋を、何の面識もないにもかかわらず、訪ねていたそうで、

「華麗なる千拍子」を観劇した読売新聞の記者は、

自信たっぷりにリーダーの魅力をはなってやまない。歌をきかせるのでなく、歌を見せるスターに成長したのだ。この種のスター出現は越路吹雪以来のこと

と、寿美花代さんを絶賛しています。

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寿美花代は31歳の時に宝塚歌劇団を退団

そんな寿美花代さんですが、1963年、31歳の時には、俳優の高島忠夫さんと結婚するため、舞台「タカラジェンヌに栄光あれ」を最後に、宝塚歌劇団を退団しています。

「寿美花代の夫・高島忠夫との馴れ初めは?猛アタックで交際しプロポーズもしていた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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