1964年に「オバケのQ太郎」が大ヒットした、「藤子不二雄」のお二人ですが、実は、「オバケのQ太郎」と数作を除き、ほぼ全ての作品は合作ではなく、藤本弘(後の藤子・F・不二雄)さんと安孫子素雄(後の藤子不二雄A)さんが、それぞれ単独で執筆した作品を「藤子不二雄」名義で発表されていました。そこで、今回は、「白い藤子不二雄」と呼ばれた、藤本さんの代表作品である「ドラえもん」誕生までの経緯について調べてみました。

「藤子不二雄aとfの違いは性格の違い?未発表作品ほかSF短編エッセイも!」からの続き

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「パーマン」以降は人気低迷~スランプ

1964年の「オバケのQ太郎」以降は、ほぼ全て、それぞれ単独で執筆されていた、藤本弘(後の藤子・F・不二雄)さんと安孫子素雄(後の藤子不二雄A)さんのお二人ですが、

劇画タッチの漫画がブームとなり、少年誌でもやや高い年齢層をターゲットとする時代になったこともあり、

安孫子さんが、「怪物くん」(1965)以降、やや児童漫画を脱した、「黒イせぇるすまん」(1969)、「魔太郎がくる!!」(1972)、「プロゴルファー猿」(1974)などで、次々とヒットを飛ばしていったのに対し、

藤本さんは、1966年に発表した「パーマン」以降も、基本的にこれまでと変わらず、児童漫画に専念。

そのためか、藤本さんが発表した、「21エモン」(1968年)、「ウメ星デンカ」(1968年)、「モジャ公」(1969年)などは、いまひとつ人気が出ず、連載が次々と打ちきりになってしまいます。

また、藤本さんは、「週刊少年サンデー」編集部に、ゴンスケ(「21エモン」に出てくるお手伝いロボット)をサラリーマン化した新作を提案されるのですが、

最近の読者層の変質についていけません。‥‥サラリーマンゴンスケには今の処、興味が持てないのです。

(そういうわけで、)新連載をヒットさせる自信は全然ありません。自信もなく始めたマンガがどういう結果になるか「ウメ星」の前例もあることです。

しばらく「少年サンデー」の執筆陣から外して頂くほかなさそうです。

と、編集長宛に手紙を出されるほど、スランプに陥ってしまったのでした。

「藤子スタジオ」のスタッフたちも、忙しい安孫子さんをメインに手伝うようになっていったそうです。)

大人向け漫画「ミノタウロスの皿」からsf短編も

ただ、そんな中、藤本さんには、青年誌「ビッグコミック」からも執筆依頼が来ており、

当初、藤本さんは、

子供向け漫画ばかり描いてきたから

自分の絵は子供向きでダメ

と、断るのですが、

かわいい絵だからかえって怖い

と、「ビッグコミック」の編集長・小西湧之助さんから熱心に執筆を勧められ、渋々引き受けられると、1969年、初の大人向け漫画(異色短編)「ミノタウロスの皿」を発表。

これが、藤本さんの予想とは裏腹に人気を博したそうで、以降、藤本さんは、長きにわたり、「ビッグコミック」「S-Fマガジン」を中心に、大人向けの漫画を数多く発表するようになっています。

ちなみに、編集長の小西さんは、仕上がった「ミノタウロスの皿」の原稿を読んだ感想を、

背筋に寒気が走るほど興奮した

怖かった

と、語っておられ、

藤本さんも、手応えを感じられたのか、

自分にもこんなものが書けるのかという、新しいオモチャを手に入れたような喜びがありました。

と、後に語っておられます。

「ドラえもん」誕生秘話

そんなこともあり、藤本さんは、再び、児童漫画で新連載が決まるのですが、

なかなか主人公が決まらず、連載開始の告知ページには、先にキャラクターが決まっていた「のび太」のみ発表し、主人公は公表できずに誤魔化し状態。

そして、まるで構想が思い浮かばないまま時は過ぎ、新連載の締切の前日(1969年11月)となると、昔、締切が守れずに干されたことを思い出し、焦りつつも、

住んでいたアパートの猫のことを思い出したり、「アイディア考え機」「タイムマシン」があったらなぁと、空想にふけっていったそうで、

やがては、そのままソファーで眠りこけてしまい、ついに、締切の日の朝を迎えてしまったのでした。

ところが、その朝、焦った藤本さんが、

なんにも、ぜーんぜんまとまってない!! わしゃ破滅じゃー

と、叫びながら階段を駆け下りたところ、たまたま置いてあった娘の起き上がりこぼし「ポロンちゃん」を踏んでしまい、「ポロンちゃん」がポロンポロンとなるのを聞いた瞬間、

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その前の晩に想像していた「ドラネコ」と、この「起き上がりこぼし」が結びつき、「ドラえもん」のキャラクターがひらめいたのです。

そして、

頭の悪いぐうたらな男を・・・いや男の子を助けるためにやってくる

と、自分自身に重ねたストーリーもこの時に思いついたのでした。

(安孫子さんによると、藤本さんは、「ドラえもん」のキャラクターを作る際、ネコのデッサンを漫画化したものを数多く描いていたそうなので、「ネコ」というアイディアはもともとあったようです。)

ちなみに、藤本さんは、後に、

ま、のび太は、私自身なんです。具体的にいえば、スポーツが苦手とか、意志が弱くて、勉強しなければいけないのに遊んでばかりいて、夏休みも終わりになると泣き出すとか、そういうところは、ぼくの体験そのものですね。

と、のび太のモデルがご自身であることを明かされています♪

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「ドラえもん」連載スタートも打ち切り

こうして、1970年1月、学年誌(小学◯年生)に「ドラえもん」の連載がスタートするのですが・・・

もう少し人気が出てもいいのに…

と、藤本さんが不満げにぼやくほど、人気はパッとせず。

それでも、4年後の1973年には、「ドラえもん」はアニメ化されるのですが・・・こちらのほうも視聴率は振るわず、わずか半年で放送終了。

(ロボットアニメ「マジンガーZ」と放送時間が重なったことも影響していたようです)

そのため、連載の方も、1974年春には打ち切りとなってしまい、藤本さんは、最終回「さようならドラえもん」を描くこととなったのでした。

(ただ、翌月には「帰ってきたドラえもん」が描かれ、原作の方は継続。その理由には、「藤本さんが継続を希望した」説と、「渋る藤本さんを編集長が継続するよう依頼した」説の、2説あり、真相は定かではありません)

「旧ドラえもん(日テレ版)はオヤジ声!悪ガキのび太と怖くないジャイアン?」に続く


「小学三年生」(1974年3月号)掲載の最終話より。未来へ帰らないといけなくなったドラえもんを心配させないようにと、のび太はボロボロになりながらも一人でジャイアンとのケンカに挑み勝利。

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