さんざんな思いでハンブルク(西ドイツ)からリヴァプールに帰ってきた、「The Beatles」は、このまま音楽活動を再開しないまま、消滅するかもしれない危機を迎えていたのですが・・・

「ビートルズは昔ドイツを国外退去させられていた!」からの続き

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ビートルズはブレイク前に解散するところだった

さんざん苦労して、やっと人気が出てきたところで、次々に国外退去の憂き目にあった、「The Beatles」ですが、最後にリヴァプールに帰ってきたジョン・レノンさんは、疲れ切っていました。

というのも、ジョージ・ハリスンさんが国外退去となり、続いてポール・マッカートニーさんとピート・ベストさんが国外退去となり、スチュアート・サトクリフさんも彼女のアストリッド・キルヒャーさんの所に身を寄せた後も、ジョンさんは一人で、他のバンドと演奏しながら10日間ハンブルクに残っており、

みんなドイツから追放されて、僕はひとり他のバンドと演奏しながらハンブルグに残った。あの若さでたったひとりで外国にいるのはかなり痛切な経験だった。僕らは稼いだ金で生活していくのがやっとだった。

僕は何の蓄えも無かったから、特にクリスマスの頃は冗談でなく食料を買う金もない状態で、ハンブルグに閉じ込められていたんだ。

故郷へ帰る時は惨めな気分だった。リヴァプールまで帰るのはけっこう腹を減らす重労働で、僕は本当に自分がかわいそうになった。

僕はまだ支払いが終わっていないアンプを背負っていたが、盗まれはしないかとカチカチに緊張した。イギリスまでたどり着けやしないと確信したね。

と、とても辛い思いをしていたのでした。

そのため、帰国後は、とても他のメンバーに会う気にはなれず、数日間は家に引きこもって、

これは僕のやりたいことか?ナイトクラブ、みすぼらしい風景、国外追放、クラブの変人、これか?

今でこそ『デカダン (decadence)』とか言うけど、何のことはない、ただハンブルグのストリップ・クラブで演奏していたというだけのことだ。

と、この後も音楽を続けるべきか必死に考えたそうで、

1960年12月15日、ようやく、

僕らはリヴァプールの音楽シーンで稼ぐべきだという結論に達した。そしたらいろんなことが開花してきて、ハンブルグでの毎日の長時間演奏から得た経験を、今ここで捨ててしまうのは惜しいと思った。

と、結論を出すと、ジョンさんは、ジョージさん、ポールさん、ピートさんの3人に連絡をとったのでした。

ポールマッカートニーはコイル巻工場で庭掃除?

一方、ポールさんはというと、帰国後、父親に、ちゃんとした仕事に就けと言われ、しまいには、

仕事が見つかるまで帰ってくるな!

と、家を締め出されたそうで、職業紹介所に行き、

仕事ありますか?なんでもいいんです。その求人票の山の一番上のやつでいいです。

と、就いた仕事が、「マシー&コギンズ社」の庭の掃除だったそうです。

そして、すぐに、将来的に管理職になるべく訓練を受け始めたのですが・・・

そこに、ジョンさんとジョージさんが現れ、演奏の仕事を持ってきたそうで、

う~ん、僕はここで週に7ポンド14シリングくれる安定的な仕事を見つけた。訓練も受けてるし、けっこういいんだ。これ以上は望めないよ。かなり真剣だった。

でもそれから考えた、父の警告が頭をかすめたが、「えぇい、ちくしょう、こんなことやってられるか!」と塀を越えてずらかった。マシー&コギンズ社とはそれきりだった。今から思えば、あれは鋭く将来を見通した行動だったと言えるよね。

と、ポールさんも音楽活動に戻ることになったのでした。

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カスバで「The Beatles」再始動

こうして、12月17日、ジョンさん、ポールさん、ジョージさんは、スチュアート・サトクリフさんの代わりにチャス・ニュービーさんをベース・ギターに加え、「カスバ・コーヒー・クラブ (Casbah Coffee Club) 」に出演。

(1959年10月10日の「ザ・クオリーメン」としての出演以来)

カスバのあちこちに貼られたポスターには「ザ・ビートルズ!ドイツ・ハンブルグから直輸入」と書かれていたことから、ドイツ人バンドの演奏を期待していた観客は、ステージに上がった、元「ザ・クオリーメン」のジョンさんとポールさんとジョージさんを見て、がっかりするのですが、いざ、演奏が始まると、観客はびっくり。

ジョンさんとポールさんとジョージさんが、ドイツで劇的にパワーアップした姿を感じ取った観客は熱狂したのでした。

「ビートルズが一晩でビートルマニアを量産した夜とは?」に続く

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