先輩からの日常的なひどいリンチに死の危険を感じ、明治大学野球部を退部すると同時に明治大学も中退された、八名信夫(やな のぶお)さんですが、その後、晴れて、プロ野球選手に。しかし、まもなく悲劇に襲われます。

「八名信夫は高校球児で活躍も明治大学野球部ではリンチから脱走していた!」からの続き

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「東映フライヤーズ」と投手として契約

先輩のひどいリンチから逃れるためとはいえ、明治大学野球部を退部してしまった八名さんですが、実は、プロ野球界からは以前からオファーがあり、明治という看板がなくても野球ができるのでは、と思っていたそうで、

(それでも、お父さんからは、大学を中退したことを怒られたそうです。)

その予想通り、その後、1956年には、「東映フライヤーズ」(現・北海道日本ハムファイターズ)と投手として契約が成立し、晴れてプロ野球選手になられます。


「東映フライヤーズ」時代の八名さん。

(ちなみに、お父さんは、岡山でキャンプを張るなどサポートしてくれたそうですが、八名さんの投げる姿をバックネットの裏で腕を組んでじーっと見ていたため、八名さんは、観衆よりもお父さんが気になって、投げづらかったそうです(笑))

父親が他界

こうして、プロ野球選手となった八名さんは、1年目から1軍に上がり、9試合に登板(うち2試合に先発し0勝1敗)。その後も1軍で起用されたのですが、リリーフ(当時のリリーフは敗戦処理に近かった)が多かったため、なかなか勝利投手となれず。

そんな中、八名さんが23歳の時、いつも、応援してくれていたお父さんが「肝臓ガン」で他界してしまったそうで、

八名さんは、後に、

(お父さんが)生きている間に、いい成績を上げることができなかったのが残念です。

と、語っておられました。

プロ野球選手を引退~引退理由は?

そんな八名さんは、プロ野球選手となって3年目の1958年8月10日、大阪・日生球場での近鉄パールス戦で投げていると、スパイクの歯がピッチャープレートに刺さってしまい、この時、腰に強い違和感を覚えたそうで、そのまま担架で運ばれると、入院。

なんと、腰の骨が折れていたそうで、八名さんは、そのせいで選手生命を絶たれてしまい、そのまま現役引退となってしまったのでした。

ただ、後に八名さんは、

もうプロとして投げられないのか――。不思議と焦りとか口惜しさといった感情は湧いてきませんでした。野球の実力は二線級だなと自覚するようになっていたからかもしれません。

と、明かされていました。

俳優に転身するも大部屋俳優のさらに下に配属

プロ野球選手を引退後、八名さんは、「東映」社長で、「東映フライヤーズ」オーナーでもあった、大川博さんから、

長嶋茂雄王貞治に打たれるより、高倉健に撃たれろ!

と言われたそうで、俳優に転身。

1958年には、映画「遊星王子」で俳優デビューするのですが、当時、日本は映画黄金時代だったため、撮影所には何百人もの俳優がおり、八名さんは、大部屋俳優のさらに下に配属。

そのため、当初は、俳優だけでは食べていくことができず、車や時計を売って、生活費を稼いでいたそうです。

また、美空ひばりさん主演の映画で、堤防の向こう側を歩かされた時のこと、何度かテストをやった後、

監督から、

八名、お前はデカくて目立ちすぎるから、もう1本奥の堤防を歩け

と、言われたそうで、

奥に行ったら映らないですよ

と、叫ぶと、

お前は映らなくてもいいんだ!

と、言われ、とても悔しい思いをしたそうです。

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「悪役」で自らを売り込む

しかし、そんなある日のこと、悪役である先輩俳優たちが、鶴田浩二さんや高倉健さんに撃たれるのを見て、

俺は体が大きいから、小さい奴が撃たれるよりも迫力があるはず

と、思いつき、監督に直談判。

すると、監督から、

やってみろ

と、即答されたそうで、

八名さんは、悪役で、できるだけ派手に撃たれ、迫力満点に倒れるように意識すると、それが良かったのか、次から次へと悪役(死ぬ役)が舞い込んできたのだそうです。

「八名信夫の若い頃は青汁CMまずいでブレイク!」に続く

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