1953年、早々に「宝塚歌劇団」を退団した、有馬稲子(ありま いねこ)さんは、その後、「東宝」に入ると、大々的に売り出され、一躍、スター女優となられます。
「有馬稲子の若い頃は宝塚!養母の芸名・有馬稲子を受け継いでいた!」からの続き
「東宝」のスター女優として活躍
1953年に「宝塚歌劇団」を退団した有馬さんは、1954年には、「宝塚」の借金を全部肩代わりしてくれるという好条件で「東宝」に入ると、
「1953年の顔」というキャッチフレーズで、大々的に売り出され、
1953年「ひまわり娘」
「母と娘」
「都会の横顔」
「幸福さん」
「愛人」
「ひまわり娘」より。三船敏郎さんと有馬さん。
と、映画に立て続けに出演。
一躍、スター女優として注目を集めます。
岸恵子らと「にんじんくらぶ」設立~岡田茉莉子と「松竹」の看板女優に
ただ、連日、映画撮影、取材、グラビア撮影、と追われる日々の中、有馬さんは、次第に、自身の演技力に不安を感じるようになっていったそうで、
東宝に入るときに、俳優座の養成所で勉強させてほしいとお願いしていたんだけど、実際に入ったら映画の撮影や取材で忙しくて、養成所に行く時間なんて全然ありませんでした。
俳優は演技力と中身の人間を磨くのが第一と、私はそう信じていたので、それもできていないのにいくら宣伝してもダメだと思っていましたからね。
と、不満を抱き始めると、
翌年の1954年には、「五社協定」に反発し、早くも、岸惠子さん、久我久美子さんらとともに「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。
芸術性のない仕事や取材を断ったりしていたから 「生意気だ」とか、ごててぐずぐずと文句をいう「ごてねこ」なんて言われたりしていました(笑)
と、自ら出演作を決めるようになったのでした。
(※「五社協定」とは、日本の大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が1953年9月10日に調印した、専属監督・俳優らに関する協定。後に日活が加わり、新東宝が倒産するまでの3年間は六社協定。1971年をもって五社協定は自然消滅。)
その後、有馬さんは、1955年、「松竹」へ移籍すると、有馬さん同様、「東宝」から移籍されてきた岡田茉莉子さんとともに、二枚看板女優として大活躍。以降、70本以上もの映画に出演されています。
小津安二郎監督からかわいがられていた
そんな有馬さんは、1957年には「東京暮色」、1958年には「彼岸花」と、小津安二郎監督の作品に出演されているのですが、
「東京暮色」より。
有馬さんによると、小津監督は、有馬さんが、終戦後、韓国から引き揚げてきた時の話が好きだったそうで、
あの話を聞かせてよ
と、何度も同じ話をさせられたそうです。
ただ、小津監督は紳士で、ものの言い方が穏やかで、本当に優しく、
横浜のおいしいレストランに連れて行ってくれたり(そこのハンバーグがとてもおいしかったそうです)、
すき焼きごちそうするからいらっしゃい
と、撮影所の横のお店で、数え切れないほど、すき焼きをご馳走になったのだそうです。
(有馬さんは、監督でご馳走になったのは小津監督だけだったのではと、おっしゃっていました。)
小津安二郎監督との思い出
ちなみに、小津監督は、小道具の位置を決める時、通常は、「上手(かみて)」「下手(しもて)」というところを、
そのコップは10センチ鎌倉
この花瓶は5センチ大船
と、独特の表現を使っていたそうですが、
それが全部決まると、セリフを言ってみるように言われ、
有馬さんが、
行くの?
というセリフを言うと、
違うなあ、「く」が高い
とか、
「い」が違う
と言われたそうで、
有馬さんが、理解できないまま何回か言うと、
違うんだよ、こう言うんだよ
と、小津監督はお手本を示してくれ、それがまた、すごく上手だったのだそうです。
「有馬稲子が今井正監督からイジメ?三國連太郎から100回以上殴られていた!」に続く