「日活」退社後は、石原裕次郎さんへの尊敬の念から、倒産寸前だった「石原プロモーション」に入ると、刑事ドラマ「太陽にほえろ」「西部警察」などで、「石原プロモーション」の再建に大きく貢献するとともに、さらにブレイクした、渡哲也(わたり てつや)さん。しかし、体調面では、度重なる病に苦しめられていました。

「渡哲也が倒産寸前の石原プロに入った理由がカッコ良すぎる!」からの続き

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NHK大河ドラマ「勝海舟」で主演も病気で途中降板

渡さんは、1974年、32歳の時、NHK大河ドラマ「勝海舟」で、主演の勝海舟役に起用されているのですが、


「勝海舟」より。丘みつ子さんと渡さん。

12月の寒い時期、水ごり(水行)を撮影するシーンで何杯も水をかぶったため、風邪をこじらせて高熱を発し、食欲をなくして、74キロあった体重が66キロまで減ってしまったそうです。

それでも、渡さんは、主演の責任感から、ひどい体調の中、撮影を続けられていたのですが、見かねた石原裕次郎さんが渡さんを説得し、第9回までの出演で途中降板。(代役は松方弘樹さんが務められました。)

その後、渡さんは、「急性肝機能不全症」を併発し、9ヶ月間も入院生活を送られました。

シングル「くちなしの花」が大ヒット

しかし、その一方で、前年の1973年8月にリリースした、シングル「くちなしの花」のヒットチャートが、1974年の年明けから上昇していき、最終的には、1974年の年間シングルチャートで7位を記録。

オリコンセールスは、77.4万枚に達し(2002年までの累計で150万枚)、渡さんは、その年の「全日本有線放送大賞金賞」を獲得。

問題の体調も秋には回復し、年末の「第25回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たされたのでした。


「くちなしの花」

ちなみに、この大ヒットの裏には、渡さんが、大河ドラマ主演を降板し、病室で悶々と療養するしかない状況を、週刊誌で知った人たちが、

励ましとともにレコードを買う

という現象があったそうで、

渡さんが、この時、いかに、国民的な人気だったかが分かります。

東映からスカウトされるも病に倒れる

そんな中、渡さんは、「日活」を退社した時にも引き合いが合った、「東映」の岡田茂社長から、

高倉健の次の東映の看板スターにしたい

と、スカウトされ、

渡さん自身も、

アクション映画をやりたい、自分のキャラクターを活かしてくれるのは、東映を置いて他にない。

と、強く「東映」入りを希望していたことから、1975年には「東映」入りかと噂されたようです。

(菅原文太さんを一躍スターダムに押し上げた映画「仁義なき戦い」(1973)の主演は、もともと、渡さんの予定だったそうですが、この時期、渡さんの体調が優れず、実現には至らなかったそうです)

そして、同年2月には、「仁義の墓場」で、「東映」作品初出演にして主演を務め、


「仁義の墓場」より。田中邦衛さんと渡さん。

同作公開後、渡さんは、当時の「東映」岡田社長から、

今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の、“渡路線”を確立することだ。

と、プッシュ宣言までされたのですが・・・

「仁義の墓場」撮影中、急激に体調が悪化し、点滴を打ちながらの撮影だったことや、撮影後も倒れたことが懸念材料となり、結局は、「東映」と専属契約を結ぶには至りませんでした。

(ただ、「仁義の墓場」では、渡さんの負のエネルギーが主人公・石川力夫に怨念として乗り移ったかのような迫力があったそうで、高い評価を得たそうです)

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高倉健や菅原文太と共演する予定だった

ちなみに、「東映」は、「東映スター・渡哲也」をイメージ付けようと、同年4月には「大脱獄」高倉健さんと、翌月の5月には「県警対組織暴力」菅原文太さんと、それぞれ渡さんを共演させ、

6月には「スーパー・アクション/強奪」、8月には「日本暴力列島・北九州電撃戦」で、渡さんを主演に据えようとしていたそうですが、

残念ながら、渡さんは入院したため、渡さんの、高倉さんや菅原さんとの共演はなくなり、渡さんは、1976年の「東映」の映画「やくざの墓場 くちなしの花」を最後に、映画出演は一時的に撤退。「石原プロモーション」の再建のため、テレビドラマに専念されたのでした。

(渡さんは、この「やくざの墓場 くちなしの花」で、「第19回ブルーリボン賞主演男優賞」を受賞されています。)

「渡哲也の大都会と西部警察出演は石原プロ再建の為だった!」に続く

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