「映画制作」という、石原裕次郎さんの夢の実現のため、「石原プロモーション」に全てを捧げていた、渡哲也(わたり てつや)さんは、様々な作戦を駆使して「石原プロモーション」をドン底から急成長へと導いたとはいえ、いつまでも映画制作にとりかかろうとしない小林専務に、ついに迫ります。
「渡哲也が小林専務(コマサ)に不信感を抱き始めた理由とは?」からの続き
小林専務(コマサ)は映画制作に反対していた?
小林専務の作戦が功を奏し、急成長を遂げた、「石原プロモーション」ですが、「石原プロとして映画を撮る」という石原裕次郎さんの夢を実現したい一心だった渡さんは、お金を稼ぐことばかりに熱中しているように見える小林専務(通称コマサ)に、次第に不信感を募らせていき、
ついに、ある時、
コマサ(小林専務)、どうして映画の話をしないんだ
と、石原さんの前で小林専務を詰問。
すると、
小林専務:必ず撮る。そのためにはしっかり稼いで、何があろうとビクともしない会社にするのが先決じゃないのか?
渡さん:カネはあるじゃないか
小林専務:もっといる
渡さん:いくらだ。だから、いくら稼げばいいんだ!
と、二人のやりとりはヒートアップします。
石原裕次郎が「西部警察」終了を決断
そこで、石原さんが、
もういい、二人とも
と、割って入り、
「西部警察」をスタートさせて5年。そろそろ潮時かもしれない。
いつまでも続けていたら映画のことを考える時間が持てないよな。どうだい、このへんでちょっと区切りをつけないか
と、いつもの笑みを浮かべながら言ったそうで、
小林専務は、
わかりました
と、頭を下げたのだそうです。
小林専務(コマサ)のコメント
ちなみに、後に、小林専務は、
映画を撮らないんじゃない、撮るのが怖かった
と、この時のことを打ち明けられています。
つまり、
満を持して映画制作に乗り出し、万一、コケるようなことがあれば「石原裕次郎」という名前にキズがつく。
と、番頭として半生を懸けてきた小林専務にとって、映画制作は足がすくむほどの恐怖だったというのです。
ただ、
自分たちは船のエンジンのようなもので、スクリューを回すのが仕事だ。船をどこに向けるかは、船長の裕次郎が決めることだ。
と、考えていたことから、石原さんの決断に従ったのだそうです。
「西部警察」が終了
そんな小林専務は、「テレビ朝日」の三浦専務に、「西部警察」を辞めることを申し出るのですが、
三浦専務はというと、大ヒット中の「西部警察」をなぜ辞めるのか到底理解できず、いぶかしんだそうで、
小林専務は、
決めたのは石原でして、それを忠実に実行するのが番頭たる私の役目です
と、きっぱり言ったといいます。
志半ばで石原裕次郎が死去
こうして、石原さんは、念願の映画制作に着手すると、旧知の脚本家・倉本聰さんを滞在先のハワイに招き、打ち合わせを重ねられたそうですが・・・
実は、「西部警察」が幕を降ろした1984年、定期検診で石原さんに「肝臓ガン」が発覚していたのです。
このことは、石原さん本人には伏せ、妻のまき子さん、兄の石原慎太郎さん、渡さん、小林専務の4人だけが知っていたのですが、
憑かれたように映画の構想を口にする石原さんを、渡さんと小林さんは、胸が張り裂けるような思いで見ていたそうです。
そして、1987年7月17日、石原さんは、静かに息を引き取られるのですが、まるで、太陽が水平線にゆっくりと沈んでいくかのような、安らかな最期だったといいます。
映画制作という石原さんの夢を叶えたい一心の渡さんと、自ら「銭ゲバ、コマサ」と称し、経営に非凡な才能を発揮した小林さん。
「石原プロモーション」に対するスタンスは違っていても、お二人の石原さんを想う気持ちに変わりはなかったに違いありません。