小3の時、運動会でおもらしをしてしまってクラスメートにからかわれ、そのイメージを払拭するため、クラスのひょうきん者を演じるようになると、このことをきっかけに、次第にコメディアンに憧れるようになった、志村けん(しむら けん)さんですが、高3の時には、ついに、「ザ・ドリフターズ」のいかりや長介さんに弟子入りを志願します。
「志村けんは小3からお笑いを目指していた!理由はおもらし?」からの続き
高校時代はビートルズに夢中
志村さんは、高校に進学すると、サッカー部に所属し、ゴールキーパーとして活躍されるのですが、一方で、「ビートルズ」に夢中になり、「ビートルズ」のマネをして、当時の高校生としては珍しい、マシュルームカットにしていたそうです。
高校時代の志村さん。
そして、志村さんが高校2年生の時には、「ビートルズ」がコンサートで初来日。
志村さんは抽選に外れてしまったのですが、チケットを持っていたクラスの女の子を説得して、なんとかチケットを手に入れ、「ビートルズ」の来日公演を観に行くことができたのだそうです。
(志村さんが観に行った前日の公演では、奇しくも後にメンバーとして加入することになる「ザ・ドリフターズ」が前座を務めているのですが、当時、志村さんは、「ザ・ドリフターズ」には特に関心はなかったそうです)
「ザ・ドリフターズ」のいかりや長介に弟子入りを志願
その後、志村さんは、高校卒業後の進路を考える時期になると、お兄さん2人は大学へ進学されていたそうですが、志村さんは、子どもの頃から憧れていたコメディアンになるため、弟子入りを決意。
高校卒業を間近に控えた1968年2月、芸能雑誌の名鑑に記載されていた、「ザ・ドリフターズ」のいかりや長介さんの住所を見て、いかりやさんの家を直接訪ねられたそうです。(今では考えられませんが、当時は、芸能雑誌の名鑑に芸能人の自宅住所が記載されていたそうです)
(由利徹さん、「コント55号」、「ザ・ドリフターズ」のいずれに弟子入するか迷われたそうですが、高校2年生の時、由利徹さんに弟子入りを志願するも断られたため、「コント55号」と「ザ・ドリフターズ」で迷った末、音楽性の面から「ザ・ドリフターズ」を選んだのだそうです)
そして、雪が降る中、いかりやさんの帰宅を12時間も待ち続けたそうですが、ようやく帰宅したいかりやさんには、門前払い同然の扱いで、容赦なく突き放されてしまったそうです。
付き人として採用された翌日から仕事で青森に
それでも、志村さんがあきらめず、食い下がると、
最終的には、いかりやさんにその根性を認められ、
やめそうな奴がいるから、そいつがやめたら連絡する
と、言われます。
その日以来、志村さんは、ただただ待ち続けたそうで、1週間後、ついに、いかりやさんから電話があり、後楽園ホールに呼び出されます。
そして、後楽園ホールでは、正式採用を告げられたそうで、
志村さんが、
じゃあ(高校)卒業したら来ます!
と、答えると、
バーカ、明日から行くんだよ、青森に!
と、言われ、翌日から青森巡業などへ付き人として同行することになったのでした。
(この青森巡業から、すぐ多忙になったそうで、高校の卒業式は、午前中だけ休みをもらって出席し、すぐまた仕事に戻ったそうです。)
ちなみに、志村さんは、記憶障害となったお父さんのことが気がかりだったそうですが、お母さんが志村さんの背中を押してくれたそうで、以降、お母さんは、常に志村さんを応援し続け、2015年、96歳で他界されるまで、「志村けんの一番のファン」を公言されたそうです。
「志村けんの若い頃は付き人しながらマックボンボンで冠番組も!」に続く