並外れた運動神経で「日活」の看板俳優として活躍し、日本映画の黄金時代を築かれた、小林旭(こばやし あきら)さんですが、同じ「日活」の看板女優で、何度も恋人役で共演された浅丘ルリ子さんとは、結婚を考えるほどの真剣交際をしていたといいます。今回は、そんなお二人の馴れ初めから破局までの経緯をご紹介します。
「小林旭は「熱き心に」の大ヒットで借金51億円を完済していた!」からの続き
浅丘ルリ子と交際&同棲
小林さんは、1960年、22歳の時、女優の浅丘ルリ子さんと交際&同棲されていたそうです。
お二人は、1958年に映画の共演で知り合われると、
浅丘さんが、
一目会ったときから私は恋に落ちていた
と、小林さんに一目惚れされたそうで、お互い運命の人と感じたお二人は、すぐに交際に発展。
そして、交際中は、
会っているだけで楽しかった
若い2人はほとばしる情熱を抑えきれずにいた
と、ほとんど毎日一緒に過ごされていたことを、浅丘さんが、読売新聞の連載「私の履歴書」で明かされています。
ちなみに、お二人は、同じ「日活」所属で、「絶唱」(1958)、「南国土佐を後にして」(1959)、「ギターを持った渡り鳥」シリーズ(1959~)、「銀座旋風児」シリーズ(1959~)と、映画で何度も恋人役として共演されているのですが、
当時を知る某映画関係者が、
ふたりの交際は当時の映画関係者の間では周知の事実でした。それでも“自然ないい演技につながるから”と、ふたりを恋人役で何度も共演させたんです
と、話しているほか、
浅丘さんも、
当時の週刊誌やスポーツ新聞の番記者さんたちは寛大で(小林さんとの交際を)見て見ぬふりをしてくれた・・・「看板スターをつぶすな」「いい映画作品を残そう」・・・私はこうした周囲の支援に支えられながら仕事に打ち込むことができた
と、明かされています。
「群衆の中の太陽」出演中の小林さんと浅丘ルリ子さん。
浅丘ルリ子の父親の反対で破局していた
こうして、順調に愛を育まれたお二人は、やがて結婚を考えるようになったそうで、
浅丘さんによると、小林さんが浅丘さんのお父さんに、
信子さん(浅丘さんの本名)をお嫁にください
と、結婚を申し込むも、
浅丘さんのお父さんが、
あの子はまだ、 女優をしていかなきゃならないので、今は結婚させられません
と、はっきり、結婚を断ったそうで、
このことが原因で、お二人の間には溝ができてしまい、自然消滅したのだそうです。
(浅丘さんは、このことを、後に小林さんから聞いて初めて知ったそうです)
ちなみに、当時、浅丘さんは、ショックが大きすぎて、生活がすさんだ時期があったそうで、石原裕次郎さんの励ましと、持ち前の女優根性で再起されたそうですが、
もし旭さんと結婚していたらどうなったかしら?
と、今でも考えることがあるとのことでした。
浅丘ルリ子との破局の真相は?
ただ、小林さんによると、この破局のくだりは少し違っていたようで、2016年、朝日新聞の連載コラム「人生の贈りもの わたしの半生」によると、
ある日のこと、小林さんが浅丘さんの両親を自宅に招待して一緒にお酒を飲んだそうですが、
酔いが回るうち、浅丘さんのお父さんに、
どこの馬の骨かわからんやつに、娘を嫁にやれるか!
と、言われたそうで、
ルリ子の両親とはそれ以前から顔は合わせていたけれど、それにしても「馬の骨」とまで言われなきゃいけないような仕打ちを、俺はこの人たちにしたか? そう思ったらルリ子との間に隙間ができていってしまった
と、明かされています。
浅丘ルリ子とデュエット曲を発売
そんなお二人も、2014年9月には、デュエット曲「いとしいとしというこころ」を発売されているのですが、7月1日、都内で公開レコーディングが行われた際、
小林さんが、
体力面を考慮しつつ、(公演で)120か所回りたい。映画の黄金期に10年間、同じ釜の飯を食って切磋琢磨し、42本共演した。精神的な感覚では夫婦以上。ここまで分かり合っている男女はいない
と、浅丘さんとの深い信頼関係を口にすると、
浅丘さんも、
若いころから一緒に仕事をしているので、目を見ただけで何をしたいか、どう言いたいのか分かる。でも、今は若いころより優しくなった。周りの皆さんへの気遣いがすてき
と、語っておられ、
結婚はできなかったとはいえ、お二人は現在も、男女の枠を超えた強い絆で結ばれているようです。
「いとしいとしというこころ」をレコーディング中の小林さんと浅丘ルリ子さん。