漫画家・赤塚不二夫さんのサポートにより「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」で初のTV出演を果たすと、今度は黒柳徹子さんに見初められ、「13時ショー」(「徹子の部屋」の前身番組)で2回目のTV出演を果たしたタモリさんは、翌年、ついに、レギュラー番組を持つことになるのですが、ラジオ番組「オールナイトニッポン」では毒舌で、マニアックな層から支持を集めるようになっていきます。
「タモリは無名時代から「徹子の部屋」に呼ばれていた!」からの続き
タモリは学園祭で引っ張りだこだった
1975年の夏、「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」「徹子の部屋」と続けざまにテレビ番組出演を果たしたタモリさんは、秋には、京都大学の学園祭「11月祭」に呼ばれ、
京大ということでブラックユーモアに対して自由な考えを持った方ばかりだと思う
と、前置きしつつ、当時、大きな国際問題になっていた事件をもとに、架空の取り調べの様子などを演じると、学生たちは大ウケ。
ただ、主催者側との話し合いで食い違いが生じて金銭トラブルとなってしまい、タモリさんが所属していた事務所「オフィス・ゴスミダ」は非力を痛感して解散。
(とはいえ、タモリさん個人はその後、1980年代の初めまで学園祭に引っ張りだこだったそうです)
以降、タモリさんは、タモリさんの大ファンかつ支援者である、漫画家・赤塚不二夫さんをはじめ、「ジャックの豆の木」の常連客らの目標でもある、芸能界入りを目指し、赤塚さん宅で居候生活を続けるのですが、その特異な芸風のため、なかなか所属事務所が決まらなかったそうです。
タモリが正式に芸能界デビューしたのは30歳だった
それでも、飲み屋でのドンチャン騒ぎで知り合った、構成作家の高平哲郎さんの紹介で、大手芸能プロダクション「田辺エージェンシー」と契約すると、
1976年4月には、イギリスのコメディ番組「空飛ぶモンティ・パイソン」の後半部分に、「The TAMORI Show」という数分間のコーナー(レギュラー番組)が用意され、タモリさんは、30歳にして、ついに正式に芸能界デビュー。
そして、この「The TAMORI Show」で、
- 「国際麻雀大会」
- 「誰でもできる指揮者・入門」
- 「各国のエレベーター・ガール」
- 「中国におけるオカマの批判」
- 「NHK教養講座」
などを披露すると、
(通りを歩いている学生を、ADが呼び止めて観客として参加させていたそうです)
「空飛ぶモンティ・パイソン」での「The TAMORI Show」を収録中のタモリさん(右)。左端は赤塚不二夫さん。
同年10月頃からは、バラエティ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」の単独コーナー「タモリのなんでも講座」にもレギュラー出演が決定。
- 「4ヶ国語麻雀」
- 「中洲産業大学のタモリ教授」
- 「タモリ神父」
- 「イグアナ」のモノマネ
- 「ハナモゲラ」(デタラメ言語)
など、毎回、怪しげな「密室芸」を披露したのでした。
タモリはラジオ番組「タモリのオールナイトニッポン」で毒舌で支持を集めていた
また、同年10月6日からは、ラジオ番組「タモリのオールナイトニッポン」の水曜1部(深夜1時~3時)のパーソナリティを務めると、
提供読みでは、
「社長の顔がデカい」角川書店グループ
「股間の恋人」B.V.D.フジボウ
などと、キャッチフレーズをセットにして読み、
歌手・さだまさしさん、作家・五木寛之さん、フォークグループ「オフコース」などを、「日本の湿った文化風土」と痛烈に批判するほか、名古屋人、映画評論家などありとあらゆる方面に対しても毒舌を展開し、タモリさんは、徐々に、マニアックな層から支持を集めるようになっていったのでした。
ちなみに、タモリさんは、
(「タモリのオールナイトニッポン」で)放送における自分の乗り方、乗せ方というのが初めて分かった
と、語っており、どんなに多忙で局から休みをうながされても、一切休みを取らなかったそうです。