「密室芸」などを得意とするキワモノ芸人として頭角を現すと、やがて、司会業の才能も発揮し、日本人なら誰もが知る存在となったタモリさんですが、今回は、そんなタモリさんの才能をいち早く見抜き、芸能界入りを強力にバックアップした、漫画家・赤塚不二夫さんとタモリさんの関係についてご紹介します。
赤塚不二夫は良きアドバイザーだった
デビュー前から、漫画家・赤塚不二夫さんに、高級マンションや高級車を使い放題のうえ、お小遣いまでもらって、贅沢三昧の一人暮らしをさせてもらっていたタモリさんですが、
芸能界入りを果たし、仕事が入ってきて、赤塚さんのマンションを出ていった後も、赤塚さんからはアドバイスを受けていたそうで、
ある時、赤塚さんから、
おまえ、自分のことだけ100%やればそれでいいと思っているだろう
テレビには共演者がいるだろう? 共演者と触れ合うことで相手がどう変わるか、自分がどう変わるかが面白いんだよ。おまえはそれをやってない
と、言われ、そのアドバイスを心がけているうち、仕事が増えていったそうです。
赤塚不二夫は面白いことを追求する同志だった
そんなタモリさんと赤塚さんですが、決して師弟関係ではなかったそうで、正月休みに軽井沢に出かけた際には、雪景色に飽き、二人して雪の中に全裸で飛び出し、タモリさんはイグアナのマネ、赤塚さんは木に登ってムササビになったつもりで隣の木に飛び移ろうとしたこともあったそうです。
(赤塚さんは、「ムサッ・・・」と言いかけ、そのまま落下したそうです(笑))
かと言って、親友という訳でもなかったそうで、ある時には、赤塚さんがお酒の席で、「仮想葬儀」というギャグを提案し、タモリさんに友人代表で弔事を読む役をやらせるなど、面白いことを追求するという同じ目的意識を持った特別な絆で結ばれていたのだそうです。
(実際、お二人は、お酒の席で数多くのギャグを生み出されたそうです)
タモリの赤塚不二夫へ贈った弔辞が泣ける
しかし、そんな赤塚さんも、2008年8月2日午後4時55分、「肺炎」のため72歳で他界。
同年8月7日、東京都中野区の宝仙寺でしめやかに告別式が執り行われると、タモリさんは弔辞を贈られたのでした。
8月の2日にあなたの訃報(ふほう)に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。
われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第一世代と言っていいでしょう。あなたの今までになかった作品やその特異なキャラクター。私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して、九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーで、ライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきりと覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。
終わって私のところにやってきたあなたは「君はおもしろい。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションに居ろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断をこの人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。
それから長いつきあいが始まりました。しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。
あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。赤塚先生はほんとうに優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると、相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところを見たことがありません。
その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。
あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも、目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんのひたいをピシャリとたたいては「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を無化していったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。
いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月。伊豆での正月。そして海外へのあの珍道中。どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。
最後になったのが、京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたはいまこの会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。
あなたにとって死もひとつのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは、夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。
しかしいまお礼を言わさしていただきます。赤塚先生本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品のひとつです。
合掌。
平成20年8月7日 森田一義
赤塚さんの葬儀で弔事を読むタモリさん。
弔辞はアドリブだった
こうして、心のこもった感動的な弔事を、手にしていた紙を何度も見返しながら、時折、涙声で読み上げたタモリさんですが、実は、手にしていた紙は白紙だったことが、後に判明しています。
そして、このタモリさんのアドリブの弔事は大きな話題となり、「私もあなたの作品の一つです」は、2008年の、新語・流行語大賞にもノミネートされたのでした。
弔辞は歌舞伎の「勧進帳」からのアイディアだった
ちなみに、タモリさんのこの白紙の紙、当時のマネージャーが「富樫(とがし)」という名前だったことから、歌舞伎の演目「勧進帳」を思いついてのことだったそうです。
というのも、この「勧進帳」、源義経と義経に仕える武蔵坊弁慶が源頼朝に追われ、京都から東北に逃げる途中、ある関所を通る際、
武蔵坊弁慶が、
都の大きなお寺の修理のために日本中を回って寄付(=勧進)を集める旅をしている
と、嘘をつくと、頭の良い「富樫」という役人に疑いをかけられ、それならば「勧進帳」を見せるようにと迫られるのですが、
(※「勧進帳」とは、寄付の目的や寄付をしてくれた人の名前が書いてある帳面)
そんなものを持っていない武蔵坊弁慶は、たまたま持っていた巻物を「勧進帳」として読み上げ、「富樫」を納得させて、無事に関所を通ることができたという話とのことで、知的なタモリさんらしいアドリブだったのだそうです。
タモリさん(左)と赤塚不二夫さん(右)♪
さて、いかがでしたでしょうか。
タモリさんの、
- 年齢は?出身は?身長は?
- 本名の由来は?芸名は?
- 両親が祖父母の養子という特殊な家族関係
- 幼少期に両親が離婚し祖父母と暮らす
- 幼少期にすでに「偽善」を感じ取っていた
- 童謡「ギンギンギラギラ夕日が沈む」が嫌で幼稚園を拒否
- 4歳~5歳の時が最も精神年齢が高かった?
- 小学校時代に学級委員長で人前に出ることの快感を覚える
- 小学校時代はラジオ番組「北京放送」が好きだった
- サングラスの理由は小学4年生の時の右目の失明
- 親友に裏切られる
- 中学時代は牧師の身振り手振りのしゃべりを観察するため教会通い
- 中学の授業中に聞いてないふりしてちゃんと答える遊び
- 中学時代は弁論大会で優勝
- 高校時代はアマチュア無線に興味を持つ
- ジャズとの出会い
- 受験勉強中はぼんやり過ごし早稲田大学を不合格となる
- 浪人生活中も勉強に身が入らず2浪の末ようやく早稲田大学に合格
- 早稲田大学時代は友人の家に居候していた
- 早稲田大学時代には名古屋人の友人とパロディを作っていた
- 早稲田大学時代は貧乏生活だった
- 「モダンジャズ研究会」に入部
- トランペット奏者から司会者へ転向させられる
- 学生バンドで司会者として人気を博す
- 接待のため好きではないお酒を鍛えていた
- 先輩マネージャーから育てられていた
- おとなしくて真面目で静かで地味な学生だった
- 早稲田大学を学費未納で除籍処分となっていた
- 「モダン・ジャズ研究会」のマネージャーは破格の収入だった
- 保険会社「朝日生命」の優秀な営業マンだった
- ボーリング場の支配人だった
- 職を転々としていた
- 見ず知らずの他人のどんちゃん騒ぎに乱入
- 山下洋輔、中村誠一、森山威男との出会い
- 山下洋輔と中村誠一のコメント
- ドンチャン騒ぎの山下洋輔と再会
- 「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパにより上京
- 知人の家を転々
- 即興芸で常連客を熱狂させる
- 赤塚不二夫との出会い
- 赤塚不二夫の高級マンションで贅沢三昧の一人暮らし
- 赤塚不二夫自身はロッカーをベッド代わりにして寝ていた
- 赤塚不二夫に多くのことを学ぶ
- 「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」でテレビ初出演を果たすも・・・
- 黒柳徹子に「徹子の部屋」に呼ばれる
- 「オフィス・ゴスミダ」解散
- 「The TAMORI Show」「タモリのなんでも講座」にレギュラー出演
- ラジオ番組「タモリのオールナイトニッポン」
- 徐々に「密室芸」が減少
- 「笑っていいとも!」の司会に抜擢
- 「笑っていいとも!」が国民的人気番組になる
- 「笑っていいとも!」で最後のスピーチ
- 「笑っていいとも!」の構成作家・高平哲郎とは疎遠に
- タモリ流「ピーマン」のおいしい食べ方とは?
- 「タモリ流生姜焼き」のレシピ
- 「タモリ」という名の魚とは?
- タモリ本人が「タモリ倶楽部」で森脇健児に激怒したことを告白
- ①高級焼肉店で次々と肉を焼き続けた
- ②ゴルフの打ちっぱなしで私語
- 当時の森脇健児はレギュラー番組12本&CM7本の超売れっ子だった
- タモリが森脇健児を干したという噂は本当か?
- 森脇健児がタモリに感謝の言葉を発するも・・・
- 妻はサラリーマン(朝日生命)時代の先輩
- 妻の体調不良が週刊誌「女性セブン」で報じられる
- 「笑っていいとも!」終了は妻のためだった
- 「笑っていいとも!」時代は超多忙だった
- 妻は眼の疾患に悩まされていた
- アジア旅行にはタモリの妻に対する想いが込められていた
- 赤塚不二夫は良きアドバイザーだった
- 赤塚不二夫は面白いことを追求する同志だった
- タモリの赤塚不二夫へ贈った弔辞が泣ける
- 弔辞はアドリブだった
- 弔辞は歌舞伎の「勧進帳」からのアイディアだった
について、まとめてみました。
見知らぬ他人がドンチャン騒ぎしている部屋に乱入し密室芸を披露したことから、「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」なるものが結成されると、カンパされたお金で一ヶ月に一回上京するようになり、今度は赤塚不二夫さんのありえないほどのパックアップなどで、大成功を収めたタモリさんですが、
その才能や人望もさることながら、「お笑いBIG3」と呼ばれるまでの超大物になっても、「笑っていいとも!」の最後のスピーチや赤塚不二夫さんへの弔辞からにじみ出ている、全くおごることのない謙虚さはさすが。タモリさんが長年第一線で活躍されているわけですね。
70代も後半にさしかかるタモリさんですが、これからも、奥さんとの時間を大事にしつつ、末永く現役を続けてもらいたいものです。