デビュー曲「君だけを」がいきなりヒットすると、その後も、「十七才のこの胸に」「星空のあいつ」「星娘」「星のフラメンコ」とヒット曲を連発し、あっという間にスターダムに駆け上った、西郷輝彦(さいごう てるひこ)さんは、いつしか、徳川御三家(『有力・有名・人気』な3者を称する表現)になぞらえて、橋幸夫さん、舟木一夫さんと共に「御三家」と呼ばれるようになります。

「西郷輝彦は昔「星のフラメンコ」が大ヒットしていた!」からの続き

Sponsored Link

「御三家」を意識してなかった?

橋幸夫さん、舟木一夫さんと共に、『有力・有名・人気』な3者を称する表現である、「御三家」と呼ばれるようになった西郷さんは、当時、他の2人と、ライバルとしてしのぎを削っていたと言われているのですが、実際はどうだったのでしょう。

西郷さんによると、

あんなにうれしいことはなかったです。だってついこの前まで実家のテレビで「潮来笠」を歌っているのを見てた橋さん、ずっと練習で歌っていた「高校三年生」の舟木さんのおふたりと自分が一緒に並べるなんて、想像もしていませんでしたからね。

と、語っておられます。


「御三家」と呼ばれた、橋幸夫さん(上)西郷さん(左)舟木一夫さん(右)

アーティストとしては「御三家」を意識していた

また、西郷さんは、テリー伊藤さんとの対談の中でも、

テリーさん:舟木さんは先にデビューしていて、特に橋さんは4年も先輩ですよね。そういう部分での距離感みたいなものはなかったんですか。

西郷さん:心の中ではどう思っていたんでしょうね。でも僕の前では「若いのに生意気だ」みたいな態度は一切見せなかったですよ。そもそも、タイプも全然違いますしね。

テリーさん:言われてみればそうですね、並ぶと和服に学生服、モダンな若者っていう感じだったから。

西郷さん:ええ、それがよかったんじゃないでしょうか。

と、語っており、特にお互いがライバル視していたという訳ではなかったようです。

とはいえ、別のインタビューでは、

向こうが すごいいい曲を出したら、僕も負けたくないから(スタッフに)「次はいいのを考えて!」というのは絶対にありますよね

と、アーティストとしては、多少意識されていたことを明かされています。

「御三家」それぞれのマネージャー、レコード会社、ファンが争っていた

むしろ、競争心をむき出しにしていたのは、当の3人ではなく、それぞれのマネージャー、レコード会社、ファンだったそうで、

3人のファン達は、取っ組み合いのケンカをするほど熱を上げ、3人のスタッフ達は、インタビュー時間の長さや、3人が登場する雑誌の表紙の写真の大きさなどを巡って争いになっていたそうで、

西郷さんは、

「(誰々が)1ミリ大きい!(撮影の時)できるだけ前に出ろ!」って・・・ そんなこと言ったってねぇ(苦笑)

と、明かされています。

Sponsored Link

鹿児島の凱旋公演では警備の警官が亡くなっていた

ところで、当時の西郷さんの人気は凄まじく、1965年5月10日、鹿児島県鴨池体育館で凱旋公演を開催された際には、5~6千人は入る体育館にもかかわらず、1日3回の公演でもお客が入り切らず、その入り切らなかったお客が会場を取り巻いたそうですが、

今日の公演はもうありません。すべて終了しました

と、アナウンスすると、楽屋の窓ガラスが石を投げられて割られるなど、取り巻いていた人たちの一部が暴徒化したのだそうです。

そのため、危険すぎるということで、西郷さんは、機動隊の制服とヘルメットを着用させられて、やっと体育館から出ることができたそうですが、

その後、暴徒化したお客が会場の入場口に殺到したことで、もみくちゃとなって将棋倒しとなり、警備にあたっていた警察官が1名死亡、観客が13名負傷するという大変な事故が起きたというのです。

西郷さんは、この事件のことがずっと心から離れず、2000年頃、その亡くなった警官の娘さんを探し出して会い、お墓参りをさせてもらうと、以来、親しくされているそうですが、

西郷さんは、著書「生き方下手」で、

亡くなられたとき、ご本人は30歳そこそこだったはずだ。悲しむ以外にどうしていいのか分からない本当につらい出来事だった。

と、自身の人気と引き換えに起こった、苦しい胸の内を綴っておられます。

(ちなみに、亡くなった警官の娘さんのご主人は西郷さんのファンで、今も鹿児島に住んでおられるそうです)


生き方下手

「西郷輝彦が相澤秀禎と決別に至った経緯は?」に続く

Sponsored Link