「劇団四季」で主宰者・浅利慶太さんから厳しい演技指導や強烈なダメ出しなどを受けつつ、必死にしがみつき、着実にキャリアを積んでいった、市村正親(いちむら まさちか)さんは、やがて、「劇団四季」の看板俳優として活躍するようになります。

「市村正親は昔「劇団四季」で浅利慶太を激怒させ平謝りしていた!」からの続き

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「劇団四季」の看板俳優として活躍

「劇団四季」の舞台「エクウス」で主演を務め、一躍ブレイクした市村さんは、その後も、

1976年「ブレーメンの音楽隊」
1977年「ヴェニスの商人」
1978年「ウエストサイド物語」
1979年「コーラスライン」
1980年「エレファントマン」
1981年「人間になりたがった猫」
1982年「エビータ」
1983年「ユリディス」

と、次々に話題作に出演し、「劇団四季」の看板俳優として活躍。

すると、そんな中、市村さんの活躍が、市村さんの地元・埼玉県川越市の地方新聞で、「いっちゃんバンザイ!一人息子は燃えている」と、称賛の記事が掲載されたことがあったそうで、その記事を読んだ、お父さんとお母さんは、大変喜んだそうです。

また、市村さんは、1983年には、「芸術選奨新人賞」を受賞し、お母さんとともに記念パーティーに出席しているのですが、

お父さんは、この時、肝硬変で倒れて入院していたことから、歌とダンスを披露した姿を含む、このパーティーの様子をビデオテープにして渡したのだそうです。

(お父さんは、病院のベッドの上でこのビデオテープを何度も繰り返し観ていたそうです)


「コーラスライン」より。

父親と母親の強い絆を知る

ちなみに、市村さんのお父さんは、1986年に70歳で他界し、お母さんは、2012年に87歳で他界されているのですが、

最期の時までベッドの上で記事を書き、新聞の発行を続けていたお父さんを、お母さんは助け、お父さんの代わりに取材をしたり、原稿の執筆も手伝っていたそうで、

お父さんも、そんなお母さんへの感謝の気持ちを記事にしていたそうです。

また、お母さんが他界された後には、お母さんが長年使っていた財布から、お父さんと結婚して10年ほど経った頃に花見に出かけた際に撮影した一枚の写真が出てきたそうで、その写真には、二人が寄り添ってダンスをする仲睦まじい姿が写っていたそうです。

(お父さんの遺体は、遺言により、日本大学医学部に検体に回されたそうです)

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「オペラ座の怪人」の主演に抜擢

さておき、その後も、市村さんの快進撃は止まらず、

1984年「キャッツ」
1985年「トロイ戦争は起こらないだろう」
1986年「ロミオとジュリエット」
1987年「夢から醒めた夢」

と、次々に舞台に出演すると、1988年には、「オペラ座の怪人」で主人公・ファントム(オペラ座の怪人)役に抜擢。

実は、市村さんは、主演のファントムではなく、永遠の青年・ラウル役のオーディションを受けており、主演のファントム役は、すでにその時、5人の候補が上がっていたそうですが、

演出家のハロルド・プリンスさんが納得いかず、市村さんの歌を聞いてみたいと言い出したそうで、

そこで、市村さんが、歌詞を一瞬で覚え、小道具の部屋に仮面をとった怪人の顔写真があったのを思い出し、

こういう顔の人が、顔を隠して歌うとどうなるか

と、考えながら歌うと、

ハロルドさんは、「ブラボー!君でいく」と叫び、市村さんは、見事ファントム役に抜擢されたのだそうです。

(市村さんは、歌っている最中、ハロルドさんが身を乗り出して聴くのを感じていたそうです)

「市村正親が「劇団四季」を退団した理由とは?」に続く

「オペラ座の怪人」でファントムを演じる市村さん。

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