浜村淳さんには、弟子入りは断られたものの、ロカビリーが大流行の中、ロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」を紹介してもらい、バンドの司会を始めた、上岡龍太郎(かみおか りゅうたろう)さんですが、ほどなくして、ロカビリーブームは終焉。そんな中、漫才師の横山ノックさんに漫才師として誘われたといいます。

「上岡龍太郎が若い頃は浜村淳に弟子入りを懇願していた!」からの続き

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横山ノックに漫才に誘われる

弟子入りさせてもらおうと、しつこく浜村淳さんに食い下がっている中、弟子入りは叶わないも、ついには、ロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」を紹介してもらい、1959年、「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」に加入し、司会を始めた上岡さんですが・・・

1960年になると、早くもロカビリーブームは下火になり、上岡さんは、初ステージを踏んでからたったの5ヶ月で次の仕事を探さなくてはいけなくなったそうです。

そんな中、同年8月12日、当時、漫才コンビ「ノック・アウト」の横山ノックさんに、

(「ノック・アウト」の漫才コンビを8月いっぱいでやめるので)若い人を探しているので、私と漫才やりませんか

と、誘われたそうで、

仕事を探していた上岡さんは、その場で即、

やります

と、答えたのだそうです。

「漫画トリオ」を結成

こうして、上岡さんは、ノックさんと漫才コンビを組むことになったのですが、司会者としてのしゃべりには長けていたものの、高校を出てまだ半年で、本格的な漫才をするのはこれが初めてだったことから、うまくツッコミを入れることができなかったそうで、

マネージャーの提案で、ツッコミを2人で担当する、トリオ漫才に変更することになると、上岡さんのバンド仲間で、お父さんが漫才師の轟盛次さんを勧誘。

そして、上岡さんが「横山パンチ」、轟さんが「横山フック」を名乗り、横山ノックさんと3人で「漫画トリオ」を結成し、トリオ漫才を始めると、

「パンパカパーン、今週のハイライト!」というフレーズとともに、リズム感とスマートさを売りにした時事風刺漫才で、関西を中心に一躍ブームを巻き起こしたのでした。

(1963年には、轟さんが離脱し、青芝フックさんが2代目フックとして加入しています)


「漫画トリオ」。(左から)フック(青芝)さん、ノックさん、パンチ(上岡)さん。

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横山ノックは服装に厳しかった

ちなみに、上岡さんが、ロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」に加入した時、リーダーの田川さんからは、

うちはロカビリー貴族になれ、チャラチャラした服装は絶対いかん。できるだけ大人の格好をしよう

と、言われたそうですが、ノックさんも服装に関してはうるさかったそうで、

上岡さんは、

『当時からノックさんはVANヂャケットを衣裳に使っていたんです。まだVANヂャケットがぜんぜん有名やないころですよ。

石津謙介さんがまだ大阪でやってはって、百貨店で売ってもらおうと思うんだけど、大丸は売ってくれんと、そごうがやっと置かしてくれたっていう時代なんです。デビューのころからずっと服装はVANヂャケットやった。

それがやがて、みゆき族とかアイビー族とか言い出して、平凡パンチの表紙になり出したんですね。あんな服装を、ぼくら昭和35年からしていたわけです。

ボタンダウンにレジメンタルタイに、コインの入ったローファー。頭も七、三に分けてケネディー・カットとかいってたころですからね。ただ楽屋では先輩の芸人にはよう言われましたよ。

「あんたら銀行員みたいな漫才師やな」って。

他の人はみんな、チェックのブレザーやとか着ているころでしたから、ぼくらが銀行員に見えたんでしょう。

と、語っています。

(上岡さん自身も、巡り合ったリーダーたちが、ちゃんとした服装にしようという考えで良かったと思っているそうです)

「上岡龍太郎は昔「鶴瓶上岡パペポTV」で東京進出に成功していた!」に続く

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