終戦後、朝鮮から鹿児島に引き揚げた両親のもと誕生した、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、両親が別居することになり、姉と共に母親についていったことから、女性ばかりの家庭で育ち、自身でも気持ちが歪んでいくのを感じたといいます。

「吉田拓郎の生い立ちは?幼少期に鹿児島から広島へ転居していた!」からの続き

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父・吉田正廣を一人鹿児島に残し一家で広島に移住

小学2年生の終わり頃、お母さんに連れられて、お姉さんとともに、広島に移り住んだ吉田さんですが、実は、お父さんとお母さんがあまりうまくいってなかったこともあり、別居することとなったそうで、

吉田さんとお姉さんは、鹿児島県庁で地方史の調査の仕事をしていたお父さんと暮らすか、お母さんについて行き、広島に住むか選択を迫られたそうですが、吉田さんもお姉さんも二人共、お母さんについて行くことを選んだそうで、お父さんは、一人、鹿児島に残ることになったそうです。

ちなみに、吉田さんは、両親の別居について、

おふくろさんは鹿児島の人じゃなくて、どこかいいとこのお嬢さんだったんです。当時、同志社なんか出てるっていう凄い人なんですが、良家のお嬢さんが薩摩男児の所に嫁いでるから決してうまくいかない。

別居しちゃったんですよ、ある時。で、僕も姉貴も、おばあゃんまでがお母さんを選んじゃったの。親父は鹿児島に残って、おふくろは広島に引越しちゃったんですよ。俺も姉貴もおばあちゃんも女3人と僕1人が、お母さんについて行ったんです。

子どもたちは「どっちを選ぶか」と言われて、僕も姉もおふくろを取っちゃった。おばあちゃんも一緒に広島に移ったので、親父だけが鹿児島に残ってやもめ暮らしが始まるという・・・。さっぱり分からない話でしょ?僕にもよく理解できない。

と、語っているのですが、

(お母さんは、母方の祖母が広島県出身だったそうですが、吉田さんは、両親の出自についてはほとんど知らないそうです)

吉田さんのお父さん・正廣さんの功績をまとめた研究書「評伝 朝鮮総督府官吏・ 吉田正廣とその時代」を出版した広島修道大学教授の坂根嘉弘氏は、

広島に行ったのは朝子さんの仕事の都合だけでなく、次女の進学という目的もあったようです。正廣氏は農学校出身の、いわゆる“ノンキャリア組”。

後に能力と実績で高等官に特進しますが、学歴の関係で悔しい思いもされたのではないかと推察します。子供たちには自分のような思いをさせたくないという一心で、長男(吉田さんの兄)を鹿児島のラ・サール高校に入学させるなど、非常に教育熱心でした

と、語っています。

女性ばかりの家庭で育つ

ところで、吉田さんのお兄さんは、吉田さんより14歳も年上で、鹿児島では、中学・高校と「鹿児島ラ・サール学園」で寮生活を送り、高校卒業後は、立教大学に進学したことから、上京してほとんど家にいることがなかったそうで、

吉田さんは、おばあちゃん、お母さん、お姉さん(吉田さんより7歳年上)と、吉田さん以外は全員女性という、男らしいものが何もない環境で育ったそうです。

しかも、そのうち、お母さんがお茶の先生を始め、多くの女性が家を出入りするようになったそうです。

(お母さんは、女手一つで子供達を育て上げ、やがては、自身の稼ぎだけで家も建てたそうです)

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女性ばかりの環境で気持ちが歪んでいた

そんな環境から、やがては、吉田さんもお母さんにお茶を習うなど、女性の影響を大きく受けて育ったそうで、

(なんと、茶道師匠の資格まで取ったそうです)

吉田さんは、後に、

あとになって、ああ、オレは女の中で育った末っ子なんだと、特に東京へ出てきてから強く感じるようになりましたね。すごくバランスが悪いんですよ、自分の中で。

女どもは(吉田さんに)何を求めるかっていうと、お父さんの代わりも求めるし、末っ子である可愛い拓ちゃんも求めるし、いろんな事、求めるわけ。

すると、僕は自分でも気持ちが歪んでいってね、一筋縄じゃないっていうか、女系に育った特殊な感じがね、出てきて

と、語っています。

(自身が女っぽかったような気がするとも語っています)

「吉田拓郎は不在だった父親と兄にも大きな影響を受けていた!」に続く

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