マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた功績により、“J-POPの開祖”とも呼ばれている、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、全ての始まりは、高校生の時、同年代の高校生がインストゥルメンタル・ロック・バンドの「ベンチャーズ」を弾きこなしているのを見て、衝撃を受けたところから始まったそうです。

「吉田拓郎は少年時代は病弱でモテなかった!」からの続き

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田代みどりや中尾ミエのファンだった

少年時代は、病弱(小児喘息)だったことから、学校をしばしば休み、家に引きこもって、ラジオを聴いたり、漫画雑誌をひたすら読んでいたという吉田さんですが、

中学2年生の時には、歌謡曲が大好きだったお姉さんの影響を受け、自然と歌謡曲を聴くようになり、やがては、ラジオのヒットパレード番組をかじりつくように聴くようになったそうです。

そして、電気屋でアルバイトを始め、レコードプレーヤーを購入すると、田代みどりさんの「パイナップル・プリンセス」というレコードを初めて買ったそうですが、


「パイナップル・プリンセス」

吉田さんは、田代さんのほか、中尾ミエさんや園まりさんのファンでもあったそうで、ファンレターを出したこともあったそうです。

(特に、中尾ミエさんが好きだったそうですが、女優の若尾文子さんにも憧れるなど、気が多かったそうです(笑))

少年時代から女性に関して気が多かった

ちなみに、吉田さんは、ちょうど同じ頃、同じクラスの女の子を好きになったそうですが(会話をすることもできないほど、内に秘めた恋だったとのこと)、ある日のこと、別の女の子にこの恋心を見破られてしまい、問い詰められると、その子のことも好きになってしまったそうです。

というのも、その子は、東京からの転校生で、都会的なうえ、(後に、コンテストで選ばれるほど)ルックスも可愛く、姉御肌的な性格だったそうですが(吉田さんの好みのタイプ)、なにより、吉田さんは、とても気が多かったそうです(笑)

(その後、初恋の女の子とは、大学生の時に再会し、一緒にお酒を飲んだそうですが、吉田さんが酔いつぶれてしまい、この恋が成就することはなかったそうです。また、姉御肌だった女の子にも、吉田さんが有名になってから、東京で再会したそうで、彼女は東京でお店を営んでいたことから、吉田さんは、度々、彼女の店に足を運んだそうです)

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高校時代にはインストゥルメンタル・バンド「トーン・ダイヤモンズ」を結成

さておき、その後、吉田さんは、進学校である県立広島皆実高校に合格し、お母さんからお祝いにウクレレを買ってもらったそうですが、この高校にはポピュラー音楽のクラブがなかったことから、写真部に入部。

(この頃には、持病だった喘息も良くなったそうで、本来の明るく活発な性格が戻り、活動的になっていたそうです)

しかし、中学時代にできた数少ない友人から招かれ、広島商業高校の文化祭を訪れると、同年代の高校生がエレキバンドを組んで、当時流行していたインストゥルメンタル・ロック・バンドの「ベンチャーズ」を弾きこなしているのを目の当たりにし、衝撃を受けたそうで、その後、級友たちとインストゥルメンタル・バンド「トーン・ダイヤモンズ」を結成。

(ただ、当時はまだ、バンドは市民権を得ておらず、学校内では活動や発表の場がなかったそうです)

そして、高校2年生の時には、ギターを買ってもらい、初めてギターを手にすると、吉田さんの家に下宿していた広島大の学生さんから、クラシックギターを教えてもらい、弾けるようになったのだそうです。

(当時、吉田さんが住んでいた霞町近辺は、広島大学に通う学生が数多く下宿していたそうです)

ちなみに、吉田さんは、2020年、「第77回中国文化賞」を受賞した際、

僕は自分の心に「火がついた」のを覚えている。「これだ!」と確信したのだ 「僕もこれをやろう!」

と、地元紙にエッセイを寄稿しています。

「吉田拓郎の「準ちゃん」は高校で片思いしていた実在の女性だった!」に続く


高校時代の吉田さんと母親の朝子さん。

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