「第2回ヤマハLMC(ライト・ミュージック・コンテスト)」の全国大会で優勝を逃し、すっかりやる気を失ってしまったという、「ザ・ダウンタウンズ」のメンバーの中、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんだけは、「広島フォーク村」を結成するなど、精力的に音楽活動を続けます。

「吉田拓郎が若い頃は米軍キャンプでの演奏を売国奴と非難されていた!」からの続き

Sponsored Link

「広島フォーク村」

1968年に開催された、「第2回ヤマハLMC(ライト・ミュージック・コンテスト)」では、念願の全国大会に出場するも、優勝を逃し、途端にやる気を失ってしまったという、「ザ・ダウンタウンズ」ですが、

吉田さんはというと、同年11月には、広島の各大学のフォークソング団体の代表者に招集をかけ、

企業色のないもっと自由な団体を作ろう

と、提案したそうで、

これを受け、広島の3つのフォーク団体(カワイ楽器系、ヤマハ系、別の軽音楽系)が、アマチュアフォークサークル「広島フォーク村」を結成。

そして、同年12月23日には、広島市青少年センターで開村コンサートが開かれると、吉田さんは顧問という名目で参加したそうですが、吉田さんのパファーマンスは全てにおいてダントツで、その人気は凄まじく、実質、リーダー的な存在だったそうで、

吉田さんの曲は、レコード化されていないにもかかわらず、地元広島のラジオ局にリクエストが殺到し、他のアマチュアがコピーするほどの凄まじい人気を博したのでした。

(「ザ・ダウンタウンズ」はフォークバンドではなかったため出場していません)

「イメージの詩」

ちなみに、この頃、吉田さんは、激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学で、バリケードに囲まれたステージに立ち、後にデビュー曲となる「イメージの詩」を歌ったそうですが、

演奏終了後には、白いヘルメット姿の学生たちに取り囲まれて、激しくアジられ(けしかけられ)たそうです。

「イメージの詩」

これこそはと 信じれるものがこの世にあるだろうか
信じるものがあったとしても信じないそぶり
悲しい涙を流している人はきれいなものでしょうね
涙をこらえて 笑っている人はきれいなものでしょうね

男はどうして 女を求めてさまよっているんだろう
女はどうして 男を求めて着飾っているんだろう
いいかげんな奴らと 口をあわして俺は歩いていたい
いいかげんな奴らも 口をあわして俺と歩くだろう

たたかい続ける人の心を誰もがわかってるなら
たたかい続ける人の心はあんなには 燃えないだろう
傷つけあうのが こわかった昔は遠い過去のこと
人には人を傷つける力があったんだろう

吹きぬける風のような俺の住む世界へ 一度はおいでよ
荒れはてた大地にチッポケな花を一つ咲かせておこう
俺もきっと君のいる太陽のあるところへ行ってみるよ
そして きっと言うだろう
来てみて良かった 君がいるから

長い長い坂を登って 後を見てごらん 誰もいないだろう
長い長い坂を下りて 後をみてごらん 皆が上で手をふるさ
きどった仕草がしたかったアンタ

鏡をみてごらん きどったアンタが映ってるじゃないか
アンタは立派な人さ

空を飛ぶのは鳥に羽があるから ただそれだけのこと
足があるのに歩かない俺には 羽も生えやしない

激しい激しい恋をしている俺はいったい誰のもの
自分じゃ言いたいのサ 君だけの俺だと 君だけのものなんだよと
裏切りの恋の中で俺は一人もがいている
はじめから だますつもりでいたのかい 僕の恋人ヨ

人の命が絶える時が来て人は何を思う
人の命が生まれる時には人はただ笑うだけ

古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう
古い船を 今 動かせるのは古い水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も 新しい船のように新しい海へでる
古い水夫は知っているのさ 新しい海のこわさを

いったい俺たちの魂のふるさとってのはどこにあるんだろうか
自然に帰れって言うことはどう言うことなんだろうか
誰かが言ってたぜ 俺は人間として自然に生きているのさ
自然に生きるって わかるなんて なんて不自然なんだろう

孤独をいつの間にか さびしがりやと感違いして
キザなセリフをならべたてるそんな自分をみた
悲しい男と悲しい女のいつものひとりごと
それでもいつかは いつものように 慰めあっている

というのも、吉田さんは、関西フォークで一斉を風靡した岡林信康さんの、「私たちの望むものは」には感動はしたものの、

戦争や政治にからめ、”今自分たちが歌わねばならない”というような使命感に燃え、連帯感を促す、関西フォークは嫌いで、

“私たちの歌”ではなく、あくまで、”自分が歌いたいから歌う”という”俺の歌”として、「イメージの詩」を作ったそうで、

戦争や政治、思想とはまるで関係のない、自分の恋愛、自分の人生、自分の生活など、個人の主張を歌った「イメージの詩」は、当時の学生運動をしている若者には、軟弱に思われたのかもしれません。

Sponsored Link

アルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」を自主制作

そんな吉田さんは、1969年、大学5年目(1年休学しているため)の時、ギター教室を開いていた「カワイ楽器広島店」に就職が決まったそうで、ピアノのセールスをしようと思っていたそうですが、

「広島フォーク村」の初代村長の伊藤明夫さん(後に吉田さんや泉谷しげるさんのマネージャー)が東京で知り合った上智大学全共闘のメンバーが、自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバムを制作することになり、吉田さんもその制作に参加するために上京すると、

1970年2月頃にレコーディングをし、翌3月には、ユーゲントレーベルから、「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」が発売されたそうです(「イメージの詩」も含まれています)。

(ちなみに、このアルバムは、もともと、全共闘の闘争資金を得るために企画されたものだったそうで、自主制作のため、「広島フォーク村」メンバーによる手売りで販売されたのだそうです)

「吉田拓郎が「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」に参加した経緯は?」に続く


「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」

Sponsored Link